トップページ»

「善光寺」

水曜日, 10月 26th, 2011

     鬼城竜生

 

2010年10月10(日曜日)-11日(月曜日)の連休を利用して長野市で日薬の学術大会が開催された。10日の夜同窓会の催しがあり、参加しなければならない為、午後に着く電車善光寺-01で出かけた。現地の方々の綿密な準備と、全国からの参加者もあり、50名を超える集会となり、久々に盛大な会になったといえる。

翌日は学術大会に参加する予定は入れていなかったので、善光寺を覗いて行くことにした。“The Saihokukan Hotel”を出たところで霧のような雨が降っていた。傘はいらないかと思ったが、折角持ってきたのだからと折りたたみ傘を広げたが、何と手持ちの傘のうち一番小さな傘を持ってきたようで、本降りになったら丸ごと濡れるのを覚悟しなければならないような傘だった。

玄関を出て左に行き、最初の信号を左に行くと、電話機の石碑に出くわした。写真を撮って直ぐ突き当たりの広い通り、多分善光寺表参道を左に行くと直ぐ北野文芸座なる演芸場みたいなものが見えた。その前を過ぎて真っ直ぐ行くとやがて大きな門が見えて来たが、近づいて見ると仁王門ということであった。仁王門の前を仲見世通りが三門まで繋がり、その奥に本堂が見えた。
                                   
善光寺-02所で信州善光寺について、一光三尊阿弥陀如来を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来との結縁の場として、民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ておりますとする説明がされている。更に『善光寺縁起』によればとして、御本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりましたとする解説が見られる。山号は「定額山」(じょうがくさん)。

善光寺は宗派によらず、全ての善男善女をお迎えする信仰の名刹とされており、善光寺は無宗派のお寺であるとされている。しかし、天台宗と浄土宗の山内寺院によって護持されており、それぞれの法要が毎朝務められているとされる。

善光寺-03善光寺-04天台宗の方は『本坊大勧進』と称して三門の左側にあり、その説明によると「勧進とは人々に仏法を説き作善をなすように勧誘策進することであり、この名を寺名にした大勧進は、開山、本田善光公以来、代々善光寺如来さまにお奉えし、民衆の教化と寺院の維持管理にあたってまいりました。弘仁八年伝教大師が信濃路巡化のみぎり、善光寺に参籠され、爾来、天台の宗風により今日に至っております。大勧進は天台宗大本山で善光寺二十五ヶ院の本坊として、住職は善光寺の住職も兼ねております。」とされている。

一方、大本願は「善光寺の創建(西暦642年)当初からその歴史を共にしてきた尼僧寺院で、代々の大本願住職、尼公上人が善光寺上人として、その伝統を継承されてきました。現在は浄土宗の大本山で、浄土宗の宗祖法然上人と二祖聖光上人とが善光寺如来の夢告により、法縁を結ばれたり、浄土宗西山派の祖証空上人、三祖良忠上人、その他数多くの浄土宗系の高僧たちにより信濃に念仏の教えが広められました。また、孫弟子、諏訪の蓮仏が北條時頼の帰依を受けて善光寺への信仰が広められ、善光寺信仰が大衆の心に大きく生かされました。江戸時代、慶長六年(1601年)善光寺-05徳川家康によって大本願を歴代住職とし、大勧進は経理面を担当するように制度化されました。」とする説明がされている。

兎に角、本堂の屋根の形も神社の屋根と寺院の屋根とが二つ重なったような形で、後で聞いたところによると、この屋根を「撞木造り」と呼ぶのだそうである。これは入母屋造りの屋根をTの字に組み合わせた構造であるとしているが、初めての経験で、仕掛けが良く理解出来ていない。大勧進と大本願で御朱印は頂いたが、よく考えたら大勧進は御不動さんで、結局、正確には御朱印は三カ所で頂戴しなければいけなかったのではないかと反省している。

帰り大門の交差点で左側を見たところ鳥居が見えたので、行ってみたところ“武井神社”なる額束が見られた。「武井神社は善光寺の参道の東側にある神社である。車の厄除け神社として知られており、社地の左半分を駐車場として使用している。湯福神社、妻科神社とともに善光寺の鎮守としても存在しており、地区の産土神として崇敬されている。江戸時代の以前には「武井明神」と呼ばれていたとされており、その後に本来の呼び方だった武井神社へ戻したといわれている等の紹介がされている。

善光寺-07電車が早い時間に指定されていたので、そのまま帰途についたが、本日の総歩行数は、12,034歩。

[2010.10.29.]