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『桜島には碧空が似合う』

火曜日, 4月 18th, 2017

                  鬼城竜生

日本薬剤師会imageの学術大会が鹿児島で開催され、それら合わせて恒例行事となった"昭和薬科大学同窓会 in 鹿児島"を、2015年11月22日(日曜日)に鹿児島サンロイヤルホテルで開催した。翌23日(月曜日)は、鹿児島で少し時間を取り市内の写真を撮り歩くことを計画していた。
まず鹿児島と云えば、最もオーソドックスな所は桜島だろうと云うことで、その撮影ポイントとして"城山(しろやま)展望台"からの撮影がいいということで、城山を目指した。最初歩いて登と云うことで、歩き始めたが、途中で、崖崩れがあるから歩行禁止の看板が出ていてのっけから腰を折られた。

一度下に降りるかと云うことで、一度下まで降りて、周りを見回すとバス停が見えた。行き先は城山公園と書かれており、展望台までは大して距離が無いように見えた。展望台については"雄大な桜島、美しい錦江湾、市街地を眺める"展望台とされており、桜島の写真を撮るためには場所的には外せないのでは無いかと思われた。

「城山」は、14世紀の南北朝時代の豪族上山氏の山城の跡で、明治10年西南戦争の時の最後の激戦地となったところだとされている。樹齢約400年と云われるクスの大木等、常緑広葉樹やシロヤマシダ、シロヤマゼンマイ等のシダ類等、約600種余りの植物が密生しているという。場所的には市街地にあって南九州特有の照葉樹林を保ち、数多くの野鳥や昆虫が生息する自然の宝庫だと紹介されている。

城山を含む約10.9haが、昭和6年6月「史跡・天然記念物」として国の文化財指定を受けたと紹介されていた。

城山の展望台から煙を噴く桜島の写真は撮れたが、残念ながら曇り空であった。写真を撮りながら思ったが、桜島を撮るなら背景は碧空がいいのではないかと思った。最もポスターにしろ、写真にしろ、青空を背景とするものが多い。曇り空の中に同色の桜島が写っていても余り迫力が無いのではないかと思われた。上の写真は、その中でも比較的見栄えのする1枚である。

image鹿児島は生まれて初めて来た街である。初めて来た街では必ず神社かお寺に寄って、御朱印を戴くことにしている。城山展望台から指呼の中に『照國神社』があるという案内がされていた。

照國神社の御祭神は照國大明神(島津家28代当主島津齊彬公とされている。東照宮が徳川家康を祀っているわけだから鹿児島で齊彬さんを祀っていても何ら不思議は無い。神社案内の小冊子の御由緒によると『島津齊彬公は文化六年(1809)に御出生、嘉永四年(1851)43歳で薩摩藩・藩主を襲封され、安政五年(1858)薨去されるまで僅か七年間の治世であったが、その間の御事績は藩内のみならず日本国にとっても広く大きく数々のものを残された。生前の御遺徳を慕い崇敬の念を寄せる万民の願いにより神社設立の運動が起り、文久二年(1862)鶴丸城の西域である南泉院の郭内に社地を選定し、仝三年(1863)五月十一日勅命によって照國大明神の神号を授けられ一社を創建した。
翌元治元年(1864)社殿竣工、照國神社と称し、明治六年(1873)県社に、仝十五年(1882)別格官幣社に列格し、仝三十四年(1901)正一位を賜り、今日では、鹿児島の総氏神様として、多くの人々に崇敬されている』と説明されている。

照國神社の社殿は、創建当時の社殿は権現造、明治十年(1877)西南の役の兵火によって焼失、仝十五年(1882)流れ造りで建設、更に仝三十七年(1904)改築、昭和二十年(1945)八月戦災により焼失、仝二十八年(1953)本殿、仝三十三年(1958)拝殿、仝四十二年(1967)神門を夫々再建し、仝六十二年(1987)東授与所、仝六十三年(1988)西授与所を建設し、平成六年(1994)百三十年御鎮座百三十年記念に幣殿を拡張したとされている。

残念ながら二度の戦火の影響で、建て替えられているため、創建当時に見られる古くなった木造建築の奥ゆかしさは感じられない。ただ、『斎鶴』なる緑色の鶴があったのに全く気が付いていなかったという体たらく。トピアリーとは違うが、鶴を表象している植木である。他の神社では観ないものなので、つい見過ごしてしまったのだと思う。

更に驚いたのは、まだ鎖国のimage時代に、齊彬公は外国船と区別するためには日本の印が必要であるとして、「日の丸」を総船印にすることを幕府に提案したとされている。また、齊彬公は、鹿児島の技術者と共に大砲を鋳造し、この大砲を乗せた日本初の西洋式軍艦を建造した。この船が「昇平丸」であり、幕府は長い間、大船(軍艦)を造ることを禁じていたが、齊彬公らの働きかけにより、解禁した。当時は、欧米露等の列強が押し寄せ、開国を迫る中、「昇平丸」は幕府に献上され、初めて日本の総船印としての「日の丸」を掲げたとされる。

西郷隆盛の銅像の写真が欲しいと云うことで、鹿児島県鹿児島市城山町4-36に向かった。西郷隆盛は、江戸城無血開城や明治新政府樹立等、明治維新に多大な功績を残した人ですが、突然職を辞して鹿児島に帰郷。 その後、西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、この城山の地で自刃した。没後50年祭記念事業として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年の年月をかけて製作し、昭和12年(1937年)5月23日に銅像を完成させた。上野の西郷さんの銅像と異なり、わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする堂々たるモニュメントである。高さ8メートル、本体5.76メートル、土台1.21メートル、築山7.27メートルという大きさである。

昼飯を食おうと云うことになり、鹿児島に高校時代までいたという男の案内で、天文館通まで行くことになった。彼が前に食べたことがあるラーメン屋で、鹿児島では名前の知られた店だという。西郷さんの銅像の所から、歩いても行けると云うことで歩いたが、にぎわい通りの『こむらさき』という店だった。

説明によると『白くて細い麺は、創業者である先代がビーフンをヒントに作り出したオリジナル麺です。かんすいを一切使用せず、また通常と違い製麺の段階で麺を一度蒸すという一手間を加えることで白くてコシのある麺になります。最近<無かんすい麺>が、体に優しいということでも注目されています。』

imageimage スープは鹿児島県産の豚骨をベースに鶏ガラも使用。他にも椎茸や昆布も入れて少し和風仕立てに。スープはその日使う分を前日に仕込み、一晩寝かせてからお出ししています。具材は、たっぷりの刻みねぎとしいたけ、千切りにしたキャベツとサッと茹でたキャベツの甘味がと云う説明通り、ラーメンにしてはサッパリした味で、嫌な後味無しに美味しく食べられた。

食後、名勝庭園として紹介されている仙巌園にバスで行くことになった。驚いてのはバスの窓越しに見えた銅像が、『五代友厚』の銅像だったことである。私の場合、NHKの朝ドラで放送されていた『あさが来た』の中で初めて聞いた名前であり、鹿児島では銅像にするほどの男との評価があるのだと驚かされた。但し、現実の五代は、女房と妾を同じ屋敷内に住まわさせていたという紹介をみて、とんでもない野郎だと思ったが、その当時ではそれほど目くじら立てる話では無かったのかもしれない。

仙巌園は中国文化の影響が色濃く見られるのが特色とされている。園内や隣接地には、日本初の工業地帯、集成館の跡地もあり、近代日本の技術力、工業力の原点ともいえる地であるとしている。 先ず眼にして驚かされるのが、鉄製の150ポンド砲である。鋳造当時のものではなくて、復元したものだと云うが、相当頑丈な砲である。最大射程距離:約3,000m、砲撃効果を期待できる有効射程距離は約imageimage1,000mとされているが、命中率はどうだったのか。形から観て余り命中率は高くなかったんじゃ無いかと思われる。

御殿裏山の山腹には巨大な岩があり、そこに「千尋巌(せんじんがん)」という白い3文字がきざまれていた。3文字の大きさは、上下で11メートル。文化11(1814)年に、27代斉興がのべ3,900人の人夫をつかい、3カ月かけて作らせたものだという。文字の白い色は胡粉という、貝がらをこまかく砕いた粉を塗り固めたものだという。このように岩に文字を刻んでそれに着色するのは、中国ではよく見られるものだとされているが、日本の庭園ではほかに例を見ないと云う。

更によく解らないのは江南竹林である。孟宗竹発祥の地とされている。江南竹林は曲水の庭の後方にあり、園内の説明書きによると江南竹=孟宗竹のことで、日本在来種では無いとされる。第21代島津吉貴が、元文元年(1736)に琉球を通じて2株をとりよせてここに植えたのが日本の孟宗竹のはじまりだという。現在、我々が食べている筍は孟宗竹のですが、仙巌園の江南竹林はまさにそのルーツだという。

『獅子乗大石灯籠』は明治17年(1884年)に29代島津忠義が、御庭方の小田喜三次に造らせた灯籠でだという。畳八畳ほどの大きな笠石の上に、逆立ちした獅子が乗っている。大きく口を開けた獅子は、飛び獅子というそうである。この石灯籠は火袋だけに加工した石を使い、笠石と台石は自然石で組んだ山燈籠と呼ばれるものだという。

                                                                      (2016.5.7.)