Archive for 4月, 2017

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「高崎-白衣観音-慈眼院」

水曜日, 4月 19th, 2017

 

              鬼城竜生

(一社)昭薬同窓会の群馬支部の例会が、高崎で開かれるというので、出かけることにした。ただ、支部の例会があるときは、早めに出かけて、その地域を代表する景色を写真に撮って、同窓会会誌の表紙に使用するという方式imageimageimageを取り入れている。今回は高崎と云うことで、写真ポイントを探したところ、白衣観音が目に付いた。

高崎の慈眼院は、もともとは高野山金剛峯寺の塔頭寺院の一つで、学侶方の寺院として隆盛を誇っていたという。明治の廃仏毀釈で高野山でも寺院の統合廃寺が進むなか、衰退しつつも慈眼院は昭和初期まで存在していたという。高崎白衣大観音建立後、昭和16(1941)年に高野山より別格本山として高崎への移転が決まった。

創建は、鎌倉中期、執権北条義時の三男、相州極楽寺入道重時と伝えられている。寺記によると、元禄時火災により炎上、過去帳や古文書の類はことごとく焼失したといわれている。続紀伊風土記には、本尊の聖観世音菩薩は鎌倉坂下村の安左衛門という文人が由比ヶ浜で漁をしたときに網にかかった尊像との記載がされている。

*高野三方(こうやさんかた)の一で、密教を専修する僧。学侶方。

高崎白衣大観音は、昭和11(1936)年、高崎の実業家井上保三郎により建立されたという。井上保三郎氏は、高崎十五連隊の戦没者の霊を慰め、世の中に観世音菩薩の慈悲の光明を降り注ぎたいと念じ、さらに高崎の発展を願って、古来観音に縁の深い観音山頂に観音像を建立された。観音像は高さ41.8m、重さは5985tのコンクリート造りとなっていると紹介してあるが、この重さをどうやって量ったのか。北関東における観音信仰・大師信仰の中心地として、広くその名が知られてきたという。昭和61(1986)年、白衣大観音建立五十周年記念事業として、仮本堂から高崎千体観音堂への大改築を成し遂げた。その前後には、一路堂・光音堂・大師堂・心経宝塔の建立、二度に亘る白衣大観音の大修理、太鼓橋・玉垣の改修と、立て続けに境内整備にとり組んだという。現在では、観光地としてはもちろん、関東八十八カ所霊場第一番札所として多くの参拝客が訪れるほか、東国花の寺百ヶ寺のひとつに選ばれ、全山約三千本の桜をはじめ四季を通じて様々な草花を楽しむことができる市民憩いの場ともなっている。観音像は平成10(1998)年に「たかさき都市景観賞」受賞、平成12(2000)年には国の「登録有形文化財」に指定されたという。

                 (2016.10.12.)

『桜島には碧空が似合う』

火曜日, 4月 18th, 2017

                  鬼城竜生

日本薬剤師会imageの学術大会が鹿児島で開催され、それら合わせて恒例行事となった"昭和薬科大学同窓会 in 鹿児島"を、2015年11月22日(日曜日)に鹿児島サンロイヤルホテルで開催した。翌23日(月曜日)は、鹿児島で少し時間を取り市内の写真を撮り歩くことを計画していた。
まず鹿児島と云えば、最もオーソドックスな所は桜島だろうと云うことで、その撮影ポイントとして"城山(しろやま)展望台"からの撮影がいいということで、城山を目指した。最初歩いて登と云うことで、歩き始めたが、途中で、崖崩れがあるから歩行禁止の看板が出ていてのっけから腰を折られた。

一度下に降りるかと云うことで、一度下まで降りて、周りを見回すとバス停が見えた。行き先は城山公園と書かれており、展望台までは大して距離が無いように見えた。展望台については"雄大な桜島、美しい錦江湾、市街地を眺める"展望台とされており、桜島の写真を撮るためには場所的には外せないのでは無いかと思われた。

「城山」は、14世紀の南北朝時代の豪族上山氏の山城の跡で、明治10年西南戦争の時の最後の激戦地となったところだとされている。樹齢約400年と云われるクスの大木等、常緑広葉樹やシロヤマシダ、シロヤマゼンマイ等のシダ類等、約600種余りの植物が密生しているという。場所的には市街地にあって南九州特有の照葉樹林を保ち、数多くの野鳥や昆虫が生息する自然の宝庫だと紹介されている。

城山を含む約10.9haが、昭和6年6月「史跡・天然記念物」として国の文化財指定を受けたと紹介されていた。

城山の展望台から煙を噴く桜島の写真は撮れたが、残念ながら曇り空であった。写真を撮りながら思ったが、桜島を撮るなら背景は碧空がいいのではないかと思った。最もポスターにしろ、写真にしろ、青空を背景とするものが多い。曇り空の中に同色の桜島が写っていても余り迫力が無いのではないかと思われた。上の写真は、その中でも比較的見栄えのする1枚である。

image鹿児島は生まれて初めて来た街である。初めて来た街では必ず神社かお寺に寄って、御朱印を戴くことにしている。城山展望台から指呼の中に『照國神社』があるという案内がされていた。

照國神社の御祭神は照國大明神(島津家28代当主島津齊彬公とされている。東照宮が徳川家康を祀っているわけだから鹿児島で齊彬さんを祀っていても何ら不思議は無い。神社案内の小冊子の御由緒によると『島津齊彬公は文化六年(1809)に御出生、嘉永四年(1851)43歳で薩摩藩・藩主を襲封され、安政五年(1858)薨去されるまで僅か七年間の治世であったが、その間の御事績は藩内のみならず日本国にとっても広く大きく数々のものを残された。生前の御遺徳を慕い崇敬の念を寄せる万民の願いにより神社設立の運動が起り、文久二年(1862)鶴丸城の西域である南泉院の郭内に社地を選定し、仝三年(1863)五月十一日勅命によって照國大明神の神号を授けられ一社を創建した。
翌元治元年(1864)社殿竣工、照國神社と称し、明治六年(1873)県社に、仝十五年(1882)別格官幣社に列格し、仝三十四年(1901)正一位を賜り、今日では、鹿児島の総氏神様として、多くの人々に崇敬されている』と説明されている。

照國神社の社殿は、創建当時の社殿は権現造、明治十年(1877)西南の役の兵火によって焼失、仝十五年(1882)流れ造りで建設、更に仝三十七年(1904)改築、昭和二十年(1945)八月戦災により焼失、仝二十八年(1953)本殿、仝三十三年(1958)拝殿、仝四十二年(1967)神門を夫々再建し、仝六十二年(1987)東授与所、仝六十三年(1988)西授与所を建設し、平成六年(1994)百三十年御鎮座百三十年記念に幣殿を拡張したとされている。

残念ながら二度の戦火の影響で、建て替えられているため、創建当時に見られる古くなった木造建築の奥ゆかしさは感じられない。ただ、『斎鶴』なる緑色の鶴があったのに全く気が付いていなかったという体たらく。トピアリーとは違うが、鶴を表象している植木である。他の神社では観ないものなので、つい見過ごしてしまったのだと思う。

更に驚いたのは、まだ鎖国のimage時代に、齊彬公は外国船と区別するためには日本の印が必要であるとして、「日の丸」を総船印にすることを幕府に提案したとされている。また、齊彬公は、鹿児島の技術者と共に大砲を鋳造し、この大砲を乗せた日本初の西洋式軍艦を建造した。この船が「昇平丸」であり、幕府は長い間、大船(軍艦)を造ることを禁じていたが、齊彬公らの働きかけにより、解禁した。当時は、欧米露等の列強が押し寄せ、開国を迫る中、「昇平丸」は幕府に献上され、初めて日本の総船印としての「日の丸」を掲げたとされる。

西郷隆盛の銅像の写真が欲しいと云うことで、鹿児島県鹿児島市城山町4-36に向かった。西郷隆盛は、江戸城無血開城や明治新政府樹立等、明治維新に多大な功績を残した人ですが、突然職を辞して鹿児島に帰郷。 その後、西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、この城山の地で自刃した。没後50年祭記念事業として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年の年月をかけて製作し、昭和12年(1937年)5月23日に銅像を完成させた。上野の西郷さんの銅像と異なり、わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする堂々たるモニュメントである。高さ8メートル、本体5.76メートル、土台1.21メートル、築山7.27メートルという大きさである。

昼飯を食おうと云うことになり、鹿児島に高校時代までいたという男の案内で、天文館通まで行くことになった。彼が前に食べたことがあるラーメン屋で、鹿児島では名前の知られた店だという。西郷さんの銅像の所から、歩いても行けると云うことで歩いたが、にぎわい通りの『こむらさき』という店だった。

説明によると『白くて細い麺は、創業者である先代がビーフンをヒントに作り出したオリジナル麺です。かんすいを一切使用せず、また通常と違い製麺の段階で麺を一度蒸すという一手間を加えることで白くてコシのある麺になります。最近<無かんすい麺>が、体に優しいということでも注目されています。』

imageimage スープは鹿児島県産の豚骨をベースに鶏ガラも使用。他にも椎茸や昆布も入れて少し和風仕立てに。スープはその日使う分を前日に仕込み、一晩寝かせてからお出ししています。具材は、たっぷりの刻みねぎとしいたけ、千切りにしたキャベツとサッと茹でたキャベツの甘味がと云う説明通り、ラーメンにしてはサッパリした味で、嫌な後味無しに美味しく食べられた。

食後、名勝庭園として紹介されている仙巌園にバスで行くことになった。驚いてのはバスの窓越しに見えた銅像が、『五代友厚』の銅像だったことである。私の場合、NHKの朝ドラで放送されていた『あさが来た』の中で初めて聞いた名前であり、鹿児島では銅像にするほどの男との評価があるのだと驚かされた。但し、現実の五代は、女房と妾を同じ屋敷内に住まわさせていたという紹介をみて、とんでもない野郎だと思ったが、その当時ではそれほど目くじら立てる話では無かったのかもしれない。

仙巌園は中国文化の影響が色濃く見られるのが特色とされている。園内や隣接地には、日本初の工業地帯、集成館の跡地もあり、近代日本の技術力、工業力の原点ともいえる地であるとしている。 先ず眼にして驚かされるのが、鉄製の150ポンド砲である。鋳造当時のものではなくて、復元したものだと云うが、相当頑丈な砲である。最大射程距離:約3,000m、砲撃効果を期待できる有効射程距離は約imageimage1,000mとされているが、命中率はどうだったのか。形から観て余り命中率は高くなかったんじゃ無いかと思われる。

御殿裏山の山腹には巨大な岩があり、そこに「千尋巌(せんじんがん)」という白い3文字がきざまれていた。3文字の大きさは、上下で11メートル。文化11(1814)年に、27代斉興がのべ3,900人の人夫をつかい、3カ月かけて作らせたものだという。文字の白い色は胡粉という、貝がらをこまかく砕いた粉を塗り固めたものだという。このように岩に文字を刻んでそれに着色するのは、中国ではよく見られるものだとされているが、日本の庭園ではほかに例を見ないと云う。

更によく解らないのは江南竹林である。孟宗竹発祥の地とされている。江南竹林は曲水の庭の後方にあり、園内の説明書きによると江南竹=孟宗竹のことで、日本在来種では無いとされる。第21代島津吉貴が、元文元年(1736)に琉球を通じて2株をとりよせてここに植えたのが日本の孟宗竹のはじまりだという。現在、我々が食べている筍は孟宗竹のですが、仙巌園の江南竹林はまさにそのルーツだという。

『獅子乗大石灯籠』は明治17年(1884年)に29代島津忠義が、御庭方の小田喜三次に造らせた灯籠でだという。畳八畳ほどの大きな笠石の上に、逆立ちした獅子が乗っている。大きく口を開けた獅子は、飛び獅子というそうである。この石灯籠は火袋だけに加工した石を使い、笠石と台石は自然石で組んだ山燈籠と呼ばれるものだという。

                                                                      (2016.5.7.)

沖縄探訪-但し那覇の一部

土曜日, 4月 8th, 2017

                  魍魎亭主人

『波上宮』

沖縄は今回で二度目だが、最初の時は三十代で、沖縄に住んでいた大学の同級生に誘われてのものだった。その友人は現在電話連絡も取れなくなっており、大体沖縄に住んでいるのかいないのかさえ解らない。

imageimageそこで友人への連絡は諦めて、東京に戻る前に、一ヵ所だけ寄り道をしたいと考えていたのがホテルの近くにあるはずの『波上宮』を訪ねることであった。最初は"はじょうみや"等と適当に呼んでいたが、実際は『波上宮(なみのうえぐう)』と呼ぶのが正式な名称であった。波上宮は沖縄総鎮守である。近代社格制度では、官幣小社に列格され、現在では神社本庁の別表神社に指定されているとされる。那覇港を望む高台の上に位置し、琉球八社の一つで、全国一の宮会より琉球国新一の宮に認定されているとされる。

御祭神は『伊弉冉尊 (いざなみのみこと)』、『速玉男尊*(はやたまをのみこと)』、『事解男尊*(ことさかをのみこと)』とされているが、伊弉冉尊以外の二神は伊弉冉尊から派生した神である。
別鎮斎(べつしずなり):『火神*(ヒヌカン)』、『産土神(うぶすなのかみ)』、『少彦名神(すくなひこなのかみ)(薬祖神)』とされているが、別鎮斎についてはハッキリした意味は分からない。

*速玉男尊:伊弉冉尊が吐いた唾から生まれた神とされている。
*事解男尊:その後を掃き払って生まれた神。
*火神:沖縄で古代より受け継がれてきた民間の信仰。ヒヌカンとはカマドの火の神様。
*image少彦名神:日本神話における神。『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子と され、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじなimageい)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ。

波上宮の発行する三つ折りによると、創始年は不詳であるが、遙か昔、洋々たる海の彼方、海神の国(ニライカナイ)の神々に日々風雨順和にして豊漁と豊穣に恵まれた平穏な生活を祈った。その霊応の地、祈りの聖地の一つがこの波の上の崖端であり、ここを聖地、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まるとしている。波上宮の御鎮座伝説に『往昔、南風原に崎山の里主なる者があって、毎日釣りをしていたが、ある日、彼は海浜で不思議な"ものを言う石"を得た。以後、彼はこの石に祈って豊漁を得ることが出来た。この石は、光を放つ霊石で彼は大層大切にしていた。このことを知った諸神がこの霊石を奪わんとしたが、里主は逃れて波上山《現在の波上宮御鎮座地で花城(はなぐすく)とも呼んだ》に至った時に神託があった。即ち、「吾は熊野の権現(ごんげん)なり。この地に社を建てまつれ、然らば国家を鎮護すべし」と。そこで里主はこのことを王府に奏上し、王府は社殿を建てて篤く祀った』と云う。

以来、中国・南方・朝鮮・大和などとの交易(琉球王府直轄事業)基地であった那覇港の出船入船は、その都度、波上宮の鎮座する高い崖と神殿を望み、出船は神に航路の平安を祈り、入船は航海無事の感謝を捧げたという。また人々は常に豊漁、豊穣を祈り琉球王府の信仰も深く、王みづから毎年正月には列を整え参拝し、国家の平安と繁栄を祈るなど朝野をあげての崇敬をあつめ、琉球八社(官社)の制が設けられるや当宮をその第一に位せしめ、「当国第一の神社」と尊崇された。

image明治の御代になるや、同二十三年官幣小社に列格し、沖縄総鎮守としてふさわしい社殿、神域の結構を見るに至ったが、先の大戦で被災した。戦後は、昭和二十八年に御本殿と社務所が、同三十六年には拝殿が再建された。そして平成五年、平成の御造営により、御本殿以下諸社殿が竣工。翌年五月、諸境内整備が完工したとされている。

神社の建物としては新しい事になるが、戦前の神社の建物を見てみたかった。現在の建物は、他府県の神社と比べてみると、幾つかの点で大きく変わっていた。先ず狛犬が狛犬ではなく、シーサーが両脇を固めていた。更に神社の建物も、やけに赤が目立つ色に充ちていた。

オオゴマダラ(大胡麻斑・学名 Idea leuconoe)

鱗翅目タテハチョウ科マダラチョウ亜科に分類。白黒のまだら模様が特徴的な大型のマダラチョウで、蛹が金色になることでも知られている。前翅長7cm前後、開長は13cmに及び、日本のチョウとしては最大級である。翅は白地に黒い放射状の筋と斑点がある。ゆっくりと羽ばたきフワフワと滑空するような飛び方をする。その飛び方と羽の模様が新聞紙が風に舞っているように見えることから、『新聞蝶』と呼ばれることもある。東南アジアに広く分布し、日本では喜界島、与論島以南の南西諸島に分布する。分布域では平地から山地まで生息し、季節を問わず繁殖するので1年中見ることができる。成虫の期間も長く、羽化してから数ヶ月、条件がよければ半年ほど生き続ける。

image狭い場所でも生活環が成立するため飼育しやすいチョウの一つで、各地の動物園などでもよく飼育される。沖縄県の宮古島市や石垣市の市のチョウに指定されている。

那覇 護国寺

高野山真言宗の那覇護国寺は、山号を『波上山(はじょうさん)』といい、院号『三光院』寺号が『護国寺』である。真言宗である以上宗祖は弘法大師空海であり、本山は高野山金剛峯寺である。寺伝によると1368年(南北朝時代:貞治七年)に創建され、薩摩の国(鹿児島県)坊津の一乗院より来琉された頼重法印(らいじゅう)とされている。当時の琉球国王察度(さっと)の尊信を得て勅願寺として建立され、天下泰平、鎮護国家、五穀豊穣、万民豊楽を祈願し、県内で最初の密教道場となった。以来、武寧(ぶねい)王より最後の尚泰(しょうたい)王に至るまで、王が即位する際には家来数百名と共に参詣し、当寺本堂に於いて君臣の縁結びの盃を取り交わしたとされている。

1846年(弘化三年)頃、英国海軍伝道局より派遣されたベッテルハイムは医師兼宣教使としての役割を持っていた。当時はキリスト教の布教が禁止されていたため、護国寺境内に軟禁されたまま数年間を過ごすことになったという。その間、布教活動は許可されなかったが、西洋医学(手術法や牛痘接種法等)を『仲地紀仁(なかちきじん)』に伝授していたが、その後来琉したペリー等と共に、米国に戻ったと云われている。

imageimage沖縄が戦場と化したとき、海岸に近い護国寺は艦砲射撃をまともに受け、戦前の建物や仏像、資料等の全てを焼失してしまった。そこで昭和二十二年頃より手始めに那覇市開南地区に場所を移して仮復興しつつ、元の波之上で本格的復興に取り組む事になった。その結果、現在の本堂、納骨堂、書院(講堂)等が昭和五十年代に完成。その後、昭和六十年に庫裡が、山門は護摩堂の新設と共に平成六年に建て替えたという。

ベッテルハイム記念碑に隣接して「台湾遭害者之墓」があるが、これは1871年(明治四年)に宮古島の貢納船が遭難して台湾に漂着した際、原住民によって殺害された乗組員(54人)を弔う為に建立されたものだという。この事件が後の台湾出兵(1874年)の引き金になったと云われている。

尚、何時のころからか、伝聞による子安信仰により、子供の名前を書いた「よだれかけ」を納めて、健康・息災を祈る習慣があるという。丈夫で強そうな金剛力士にあやかっての事ではないかとされているが、三門で睨みを利かせている金剛力士像は、他の地域三門を飾ると金剛力士像とは異なった絵面に見える。

image戦後になると先代住職による遺骨収集や慰霊塔建立を始め、県内各地での慰霊祭執行に携わって来たという。特に護国寺に隣接する「小桜之塔」(対馬丸遭難者慰霊塔)では、現在でも遺族会を中心に多くの参列者が集まり、毎年盛大な慰霊祭が行われていると紹介されている。
この関連では、オオゴマダラ飼育施設の直ぐ傍に『対馬丸記念館』が建設されていた。

対馬丸事件

image対馬丸(6754 t)は、1944(昭和一九年)年8月21日夕方、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1788名を乗せ、同じように疎開者を乗せた和浦(かずうら)丸・暁空(ぎょうくう)丸と護衛艦の宇治(うじ)・蓮(はす)を含む計5隻の船団を組んで長崎を目指し出航した。しかし翌22日夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け対馬丸は沈められてしまう。建造から30年も経った老朽貨物船・対馬丸は航行速度が遅く、潜水艦の格好の標的だったといえる。
ほとんどの乗船者は船倉に取り残され、海に飛び込んだ人も台風の接近に伴う高波にのまれた。犠牲者数1418名(氏名判明者=2004年8月現在)。イカダにすがって漂流した人々は、付近の漁船や海軍の哨戒艇に救助されたほか、奄美大島まで流されるなどして生き延びたひともいた。この時の対馬丸には船舶工兵第二十六連隊第一中隊の将校以下211名を乗せていた。