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「10・9 上野公園戦跡巡り」

水曜日, 12月 2nd, 2015

                       鬼城竜生

東京医労連OB会の恒例行事となった『戦跡巡り』、今回は“あまり知られていない上野あれこれ”として、皆が十分知っていると思い込んでいる上野公園と公園に隣接する慰霊碑等を巡ることになった。JR上野駅公園改札口に9日(金曜日)13時に集合。

*慰霊碑「悲しみの東京大空襲」(寛永寺)、「時わすれじの塔」(東京・上野公園清水観音堂の北側、西郷隆盛銅像の後方)、「広島・長崎の火モニュメント」(東照宮)、「ボードワン博士像」、「グラント将軍植樹image碑」、「上野の大仏」、「西郷像」、「彰義隊戦死の碑」等を巡ることになっていた。またコースの途中で“国立国会図書館国際子ども図書館(旧帝国図書館;台東区上野公園12-49)”で休憩、この建物は1906年(明治三九年)創建、2002年に子ども図書館として利用されるようになったものである。
なお、案内は前回同様清水眞吉(年金者組合文京区支部長)さん。

*上野寛永寺は1625年(寛永二年)に天海僧正により創建された。徳川家並びに江戸幕府の安泰を願うなら、江戸城の鬼門となる場所に鎮護の寺を建立すべきだと進言し、三代将軍徳川家光の命により「東叡山寛永寺」が建立された。寺は京の“比叡山延暦寺”をモデルとして、名称を東の比叡山として“東叡山”とし、その時の年号を取って“寛永寺”とした。創建時の年号を取った寺は「延暦」、「仁和」等少数しかなく珍しいとされている。また寺の周囲は、琵琶湖に倣って不忍池を、京都の清水寺に倣って清水観音堂を建立した。
寛永寺は当初、祈祷寺として位置付けられていたが、その後将軍の霊廟(墓所)を持つ菩提寺となった。初代住職は天海僧正であるが、三代目から十五代までは皇族から法皇を迎え、いわゆる上野の宮様と呼ばれた。

*寛永寺は1868年(慶應四年)の上野戦争でほぼ建物は焼失した。上野戦争で荒廃したこの地に当初医学校を建てる計画だったが、オランダ人医師ボードワンの進言で1873年(明治六年)我が国最初の公園に指定され、1876年(明治九年)天皇を迎え、開園式が開かれた。その後天皇から東京市に下賜されたと云うことで“恩賜”という名で呼ばれている。当時公園は博覧会、天覧競馬、花火大会などのイベント会場として利用された。また、博物館、動物園、美術館などが建設された。1920年(大正九年)2月普通選挙を求めるためのデモ行進が行われ、同年5月には日本で初めてのメーデーが開催された場所でもある。

*慰霊碑「哀しみの東京大空襲」:上野公園に東京空襲の記念碑を建てようという運動が、海老名香葉子さん達によって起こされた。これに対し当時東京都知事であった石原慎太郎は首を縦に振らず、寛永寺の支院現竜寺が場所を提供し2005年3月10日に建設された。
碑文『何の罪もない多くの人々が、戦時体制の下で悲惨な最期を遂げられたことを心から悼み、あらためてそのご冥福をお祈りすると共に、再びこうした悲劇が繰り返されないことを願って、この慰霊碑を建立する。』 尚、現竜寺には三代将軍徳川家光が死去(1651年)したとき、後を追って4人の大名が殉死した。その大名達の墓がある。

*慰霊碑「時忘れじの塔」:関東大震災(1923年-大正十二年)・東京大空襲(1945年-昭和二十年)を知ってもらい、平和な時代へと時をつなげる心…。これも海老名香葉子さんらの建立(2005年3月9日に開眼供養と除幕式)。

*旧寛永寺本坊表門:寛永年間(1624-1644)に建立されたと云われている。本坊は4回も火災に遭い、更に1868年の上野の山に立て籠もった彰義隊の戦争で表門を残して全焼した。その後、表門は国立博物館前にimageあったと云うが、関東大震災の後ここに移築された。門柱や扉には銃弾や砲弾の跡が残っている。重要文化財の指定を受けている。

*両大師堂:慈恵大師と慈眼大師をお祀りしている。慈恵大師は996年(康保三年)から19年間、天台宗の座主の職にあった良源大僧正で、天海僧正が深く帰依していた人である。慈眼大師は寛永寺の開祖である天海僧正であるという。

*ボードワン博士像:ボードワン(1822-1885)は、オランダの人である。1862年(文久二年)幕府の招聘により来日し、西洋医学の教師として活躍した。明治政府は上野戦争によって瓦礫の山となった、この地を東大病院と陸軍病院にすることに決めた。それに対して博士は景勝に優れた由緒のある地は公園にすべきだとして、強く主張した。政府はこの意見を採り上げ、日本で初めての公園に指定した。
1973年(昭和四八年)公園開園100年を記念して顕彰のために像が建立された。所が最初の像は博士に似ていないということになり調べた結果、博士の弟をモデルとして作成されていることが解った。そこでその像を撤去し、新しい胸像に変え、2006年10月6日に新たに除幕式が行われた。

*広島・長崎の火モニュメント:1945年8月6日・9日に広島に次いで長崎に原子爆弾が投下された。数十万人の人々が犠牲になり、今なお多くの人々が被曝の影響で苦しんでいる。山本達雄さんと云う方が、広島のおじさんの家の廃墟から燃え残っていた火を福岡県星野村に持ち帰り、形見の火として灯し続けていた。村では今も「広島の火」として核兵器を無くし、平和を願う物として火を灯し続けている。この火と長崎の原爆瓦から取った火を合わせて、「広島・長崎の火」として、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名」と共に国連総会に届け、一躍世界の注目を集めた。この火を永遠に残そうという運動が起き、前東照宮宮司の嵯峨敞全氏の厚意で被曝45周年を記念した1990年にモニュメントが完成した。2007年宮司が御子息の代になり、元火の保管や集会などは行わないことになり、
元火は現在“下町人間の会”に保存されている。またモニュメントの隣に100年後に開くというカプセルが2000年に埋設された。

               (2015.10.16.)