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『コリスチンの取扱について』

火曜日, 12月 29th, 2015

 

KW:薬名検索・コリスチン・colistin・多剤耐性緑膿菌・オルドレブ点滴静注用・コリスチンメタンスルホン酸ナトリウム・CL・腎障害時投与

Q:父親が多剤耐性緑膿菌による感染の治療を受けていますが、コリスチンによる治療を受けたいと思い、検索した結果、こちらのメールアドレスにたどり着きました。結論から言ってしまいますと、コリスチンを使用して治療している病院、もしくはコリスチンを海外輸入して治療している病院を探しています。

A:コリスチン(colistin)の製剤について国内では2015年5月に発売され、2015年5月に薬価収載されている。商品名は『オルドレブ点滴静注用150mg(グラクソスミスクライン)』である。本品1v中にコリスチンメタンスルホン酸ナトリウム(colistin sodium methanesulfonate )[コリスチン(別名:ポリミキシンE)として172.5mg(力価)』を含有する。略号:CL(コリスチン)。

本品の作用機序については、次の通り報告されている。
『コリスチンの標的は細菌外膜であり、グラム陰性菌のリポポリサッカライド分子との静電的相互作用により細菌外膜の安定性を低下させ、細菌外膜に局所的な障害を起こす結果、細胞内物質を流出させ殺菌活性を発揮する。』

本剤の適応菌種は「コリスチンに感性の大腸菌、シトロバクター属、クレブシエラ属、エンテロバクター属、緑膿菌、アシネトバクター属。ただし、他の抗菌薬に耐性を示した菌株に限る」とされている。

本品の効能又は効果に関連する使用上の注意は、次の通りである。
1.β-ラクタム系、フルオロキノロン系及びアミノ配糖体系の3系統の抗菌薬に耐性を示す感染症の場合にのみ本剤を使用すること。2.原則としてコリスチン及び上記3系統の抗菌薬に対する感受性を確認した上で本剤を使用すること。3.本剤はグラム陽性菌、ブルセラ属、バークホルデリア属、ナイセリア属、プロテウス属、セラチア属、プロビデンシア属及び嫌気性菌に対しては抗菌活性を示さないため、これらの菌種との重複感染が明らかである場合、これらの菌種に抗菌作用を有する抗菌薬と併用すること。

[用法及・用量]:通常、成人には、コリスチンとして1回1.25-2.5mg(力価)/kgを1日2回、30分以上かけて点滴静注する。

[用法・用量に関連する使用上の注意]1.本剤の使用は、感染症の治療に十分な知識と経験を持つ医師又はその指導の下で行うこと。2.本剤の使用にあたっては、耐性菌の発現等を防ぐため、感染部位、重症度、患者の症状等を考慮し、適切な時期に、本剤の継続投与が必要か否か判定し、疾病の治療上必要な最小限の期間の投与にとどめること。3.高齢者あるいは腎機能障害患者に本剤を投与する場合は、腎機能に十分注意し、患者の状態を観察しながら、下表を目安として用法・用量の調節を考慮すること。

<参考:腎機能に対応する用法・用量の目安>

Ccr.(mL/min):≧80用法・用量:1回1.25〜2.5mg(力価)/kgを1日2回投与
Ccr.(mL/min):50〜79用法・用量:1回1.25〜1.9mg(力価)/kgを1日2回投与
Ccr.(mL/min):30〜49用法・用量:1回1.25mg(力価)/kgを1日2回又は1回2.5mg(力価)/kgを1日1回投与
Ccr.(mL/min):10〜29用法・用量:1回1.5mg(力価)/kgを36時間ごとに投与

[薬効薬理]1.抗菌作用:いずれも多剤耐性の緑膿菌、アシネトバクターバウマニ、エンテロバクタークロアカ、シトロバクター属並びに肺炎桿菌カルバペネマーゼ産生及びニューデリー・メタロ-β-ラクタマーゼ1産生の肺炎桿菌に対して抗菌力を示したとの報告がある。

[薬効・薬理]1.抗菌作用:コリスチンは、グラム陰性桿菌に対して殺菌的に作用する。2. 耐性:耐性を獲得し難く、他種抗生物質との間には交叉耐性がないため他種抗生物質耐性菌にも有効である。3. 作用機序細胞質膜の障害である。

1) 高久史麿・他監:治療薬マニュアル2015:医学書院,1205
2) オルドレブ点滴静注用添付文書,2015

         [011.1.COL;2015.11.10.古泉秀夫]

「10・9 上野公園戦跡巡り」

水曜日, 12月 2nd, 2015

                       鬼城竜生

東京医労連OB会の恒例行事となった『戦跡巡り』、今回は“あまり知られていない上野あれこれ”として、皆が十分知っていると思い込んでいる上野公園と公園に隣接する慰霊碑等を巡ることになった。JR上野駅公園改札口に9日(金曜日)13時に集合。

*慰霊碑「悲しみの東京大空襲」(寛永寺)、「時わすれじの塔」(東京・上野公園清水観音堂の北側、西郷隆盛銅像の後方)、「広島・長崎の火モニュメント」(東照宮)、「ボードワン博士像」、「グラント将軍植樹image碑」、「上野の大仏」、「西郷像」、「彰義隊戦死の碑」等を巡ることになっていた。またコースの途中で“国立国会図書館国際子ども図書館(旧帝国図書館;台東区上野公園12-49)”で休憩、この建物は1906年(明治三九年)創建、2002年に子ども図書館として利用されるようになったものである。
なお、案内は前回同様清水眞吉(年金者組合文京区支部長)さん。

*上野寛永寺は1625年(寛永二年)に天海僧正により創建された。徳川家並びに江戸幕府の安泰を願うなら、江戸城の鬼門となる場所に鎮護の寺を建立すべきだと進言し、三代将軍徳川家光の命により「東叡山寛永寺」が建立された。寺は京の“比叡山延暦寺”をモデルとして、名称を東の比叡山として“東叡山”とし、その時の年号を取って“寛永寺”とした。創建時の年号を取った寺は「延暦」、「仁和」等少数しかなく珍しいとされている。また寺の周囲は、琵琶湖に倣って不忍池を、京都の清水寺に倣って清水観音堂を建立した。
寛永寺は当初、祈祷寺として位置付けられていたが、その後将軍の霊廟(墓所)を持つ菩提寺となった。初代住職は天海僧正であるが、三代目から十五代までは皇族から法皇を迎え、いわゆる上野の宮様と呼ばれた。

*寛永寺は1868年(慶應四年)の上野戦争でほぼ建物は焼失した。上野戦争で荒廃したこの地に当初医学校を建てる計画だったが、オランダ人医師ボードワンの進言で1873年(明治六年)我が国最初の公園に指定され、1876年(明治九年)天皇を迎え、開園式が開かれた。その後天皇から東京市に下賜されたと云うことで“恩賜”という名で呼ばれている。当時公園は博覧会、天覧競馬、花火大会などのイベント会場として利用された。また、博物館、動物園、美術館などが建設された。1920年(大正九年)2月普通選挙を求めるためのデモ行進が行われ、同年5月には日本で初めてのメーデーが開催された場所でもある。

*慰霊碑「哀しみの東京大空襲」:上野公園に東京空襲の記念碑を建てようという運動が、海老名香葉子さん達によって起こされた。これに対し当時東京都知事であった石原慎太郎は首を縦に振らず、寛永寺の支院現竜寺が場所を提供し2005年3月10日に建設された。
碑文『何の罪もない多くの人々が、戦時体制の下で悲惨な最期を遂げられたことを心から悼み、あらためてそのご冥福をお祈りすると共に、再びこうした悲劇が繰り返されないことを願って、この慰霊碑を建立する。』 尚、現竜寺には三代将軍徳川家光が死去(1651年)したとき、後を追って4人の大名が殉死した。その大名達の墓がある。

*慰霊碑「時忘れじの塔」:関東大震災(1923年-大正十二年)・東京大空襲(1945年-昭和二十年)を知ってもらい、平和な時代へと時をつなげる心…。これも海老名香葉子さんらの建立(2005年3月9日に開眼供養と除幕式)。

*旧寛永寺本坊表門:寛永年間(1624-1644)に建立されたと云われている。本坊は4回も火災に遭い、更に1868年の上野の山に立て籠もった彰義隊の戦争で表門を残して全焼した。その後、表門は国立博物館前にimageあったと云うが、関東大震災の後ここに移築された。門柱や扉には銃弾や砲弾の跡が残っている。重要文化財の指定を受けている。

*両大師堂:慈恵大師と慈眼大師をお祀りしている。慈恵大師は996年(康保三年)から19年間、天台宗の座主の職にあった良源大僧正で、天海僧正が深く帰依していた人である。慈眼大師は寛永寺の開祖である天海僧正であるという。

*ボードワン博士像:ボードワン(1822-1885)は、オランダの人である。1862年(文久二年)幕府の招聘により来日し、西洋医学の教師として活躍した。明治政府は上野戦争によって瓦礫の山となった、この地を東大病院と陸軍病院にすることに決めた。それに対して博士は景勝に優れた由緒のある地は公園にすべきだとして、強く主張した。政府はこの意見を採り上げ、日本で初めての公園に指定した。
1973年(昭和四八年)公園開園100年を記念して顕彰のために像が建立された。所が最初の像は博士に似ていないということになり調べた結果、博士の弟をモデルとして作成されていることが解った。そこでその像を撤去し、新しい胸像に変え、2006年10月6日に新たに除幕式が行われた。

*広島・長崎の火モニュメント:1945年8月6日・9日に広島に次いで長崎に原子爆弾が投下された。数十万人の人々が犠牲になり、今なお多くの人々が被曝の影響で苦しんでいる。山本達雄さんと云う方が、広島のおじさんの家の廃墟から燃え残っていた火を福岡県星野村に持ち帰り、形見の火として灯し続けていた。村では今も「広島の火」として核兵器を無くし、平和を願う物として火を灯し続けている。この火と長崎の原爆瓦から取った火を合わせて、「広島・長崎の火」として、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名」と共に国連総会に届け、一躍世界の注目を集めた。この火を永遠に残そうという運動が起き、前東照宮宮司の嵯峨敞全氏の厚意で被曝45周年を記念した1990年にモニュメントが完成した。2007年宮司が御子息の代になり、元火の保管や集会などは行わないことになり、
元火は現在“下町人間の会”に保存されている。またモニュメントの隣に100年後に開くというカプセルが2000年に埋設された。

               (2015.10.16.)

『山形行-岩に染みいる………』

水曜日, 12月 2nd, 2015

             鬼城竜生

2015年6月21日(日曜日)~22日(月曜日)の両日、(一社)昭薬同窓会山形支部の総会が開催された。例によって例の如く、22日は時間を取ってこれぞ山形と云う写真を撮って、同窓会会誌の表紙に使いたいといimageimageう予定を立てた。

さて山形市から近くて何処か適当なところはないのかと地図を見たところ山形駅から仙山線で山寺という駅があるのに気付いた。取り敢えずそこに行こうということで、計画を立ててきたので駅に行って電車の時刻を確認したが、何と1時間に1本しか電車がでていなかった。

駅名は山寺だが、東北第一の天台宗の霊場として知られる宝珠山立石寺が正式な名称である。立石寺は定観二年(860年)に慈覚大師が開基したものとされる。重要文化財に指定されている根本中堂等の堂塔伽藍の他に、1,100余年前に比叡山から移した不滅の宝塔が守られているという。また立石寺は松尾芭蕉が『閑かさや岩にしみいる蝉の聲』と謳った地として知られている。最も、境内にあった句碑を見てああここがそうかという体たらくで、全く頭の中では繋がっていなかった。
むしろ気になっていたのは、そんな高邁な問題ではなく、山寺駅に書かれていた『当駅から奥の院まで往復2時間かかります』の注意書きの方である。普通の歩きで2時間かかるとすると、山登りをやっていた若い頃ならいざ知らず、今の脚力では3時間以上かかる可能性がある。
山形市内に戻り、山形城の城主最上善光(よしあき)の銅像の写真が1枚欲しいと考えていた。下手に山寺でのたくっていて、奥の院まで時間がかかりすぎると、1時間に1本しかないimageimage電車では、タイミングが悪ければ、予約している新幹線に間に合わない心配がある。悩んだ結果、下司の考えは楽な方に流れるで、山寺の地図を眺めた結果、天辺まで行くのは諦め、根本中堂・日枝神社・念仏堂・立石寺本坊を御参りして切り上げることに決めてしまった。

根本中堂は立石寺という御山全体の寺院の本堂に当たる御堂だと説明されている。現在の根本中堂は延文元年(1356年)初代山形城主・斯波兼頼が再建した入母屋造・五間四面の建物で、ブナ材が全体の6割程用いられブナ材の建築物では日本最古といわれているという。堂内では、本尊として慈覚大師作と伝えられる木造薬師如来坐像をお祀りし、脇侍として日光・月光両菩薩と十二支天、その左右に文殊菩薩と毘沙門天を拝することができるとされている。また、伝教大師が比叡山に灯した灯を立石寺に分けたものを、織田信長の焼打にあった延暦寺を再建したときに、逆に立石寺から分けたという、不滅の法灯を拝することができるとされる。根本中堂の境内には橋殿と呼ばれる石橋があり案内によると「古来、天皇、宮人のみ渡る石橋と伝えられている。石橋の裏側に梵字の古代仏字が刻み込まれている。石地蔵尊の頭をなでると長命できるとか。

日枝神社は例年5月17日に山寺山王祭がおこなわれる。主神は大山咋神(おおやまくいのかみ)で、山に杭を打つと云うことから山の神とされているそうである。境内の右側の大きな碑は、この地に行幸された大正天皇と、貞明皇后の記念碑である。後方の大銀杏は、山形市で一番太いという天然記念物で、慈覚imageimage大師お手植と伝えられ、1000年を超える樹齢という紹介がされている。

立石寺本坊を降りて駅に向かう右手に対面石という石が出てくる。この石に『対面』名前が付けられているのは、慈覚大師が山寺を開くにあたり、この地方を支配していた狩人磐司磐三郎とこの大石の上で対面し、仏道を広める根拠地を求めたためと伝えられている。磐三郎この時、慈覚大師に帰依し、狩人を止めたという。狩人をやめたことを喜んだ動物達が磐司に感謝して踊ったという伝説のシン踊が、山寺磐司祭で奉納される。

最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名である。最上氏第11代当主で、出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。
義光は調略による敵陣営の切り崩しを得意とした。内応工作に応じる者が多かったのは、その度量の広さが知れ渡っていたことが大きい。例えば寒河江氏は義光に降った旧臣らの嘆願を受け再興を許されている。義光は常々「大将と士卒は扇のようなものであり、要は大将、骨は物頭、総勢は紙だ。どれが欠けていても用は為さないのだから、士卒とは我が子のようなものだ」と語っていたという。また、義光は早くから集団戦術・火器に着目しており、酒田港経由で上方より大量の銃器・火薬を入手し、また堺から鉄砲鍛冶を招聘していた。天正二年(1574年)の伊達・上山勢との戦闘や、寒河江城攻略においては集団射撃で敵を破っている。長谷堂城の戦いでも、上杉勢は最上勢の射撃に苦しめられた。

山形城は最上義光の居城として知られ、日本国内では5番目imageの広さで、奥羽地方では最大の城だったと云われている。羽州探題の名門ながらも衰退していた最上家を、戦国乱世の中で57万石まで押し上げた名将。一揆も起imageきない善政を敷き、山形の繁栄の基礎を築いた名君とされている。戦場では刀の2倍の重さの鉄棒を振るう勇将であり、同時に調略・説得と云った戦わずして勝つ知略を駆使した。「羽州の狐」等の異名を取っていたとされる。また山形城下に桃山文化の花を咲かせ、細川幽斎に次ぐ戦国第二位の248句の連歌を残した文化人でもあった。

現在、山形市郷土館とされる建物は初代山形県令三島通庸の命により明治11年2月着工同9月に落成したとされる。山形県立病院で、明治十二年太政大臣三条実美により『済生館』と命名された。後に山形市立病院として使用され、昭和四十一年十二月に国の重要文化財に指定された。明治初期の擬洋風建築の傑作であるとされている。3階建ての建物で、建物の真ん中に庭が有り、各部屋は回り廊下で繋がっている。

開院当初はオーストラリア人の医師ローレンツ博士が、医学寮教頭兼館医として就任した。ローレンツ博士はオーストリア人の医師で、明治十五年七月に帰国するまでの約2年間、独逸医学の啓蒙に尽力したと云われている。

写真を撮り歩いて驚いたのは、山形城の敷地の広さである。当初は土塁ベースの城だったとされるが、最上家改易後に入部した鳥居忠政により石垣造りの城郭に大幅改修されたという。二ノ丸石垣や水堀などが現存、本丸は日本陸軍により埋め立てられていたが現在発掘復元工事が進んでいるとされる。二ノ丸東大手門、本丸一文字門が復元済。山形城は、地元では『霞城』と云われているようである。

              [2015.8.9.]

『本気でそう思っているのでしょうか』

水曜日, 12月 2nd, 2015

                     魍魎亭主人

『徴兵制の指摘も当たらない。今の戦闘は、ハイテクに頼っており、たんに素人を集めても役に立たない』と国際大学長の北岡伸一氏が“語る”“安全保障法制”(読売新聞第50145号,2015.9.1.)の中で記述していた。この点に関して甚だしく誤解があるのではないかと思うが、戦闘が全てハイテクに頼っているわけではないだろう。銃に弾を込めることが出来て、引き金を引くことさえ出来れば、弾は飛ぶ。

イスラム過激派組織“イスラム国”の戦闘員の全てがハイテクで制御されている兵器を持参しているとは思えない。それでも戦闘が出来ているということは、最前線で人対人が向き合ってする戦闘では、特段ハイテクで制御された武器が必要とされるわけではなく、どんな過酷な状況下でも間違いなく弾が飛び出すAK-47カラシニコフなどの銃があればそれで十分ではないか。更には米国で販売されているMk13グレネードランチャーなどの軽量の武器があれば、十分に戦闘になる。これだって別にハイテクの必要性はない。

それに北岡氏は徴兵制をどのように解釈しているのだろうか。18歳で召集するか、20歳で召集するか、大卒で直ちに召集するか。それは召集する側の都合で決まる。それから徹底的に教育すればコンピュータに馴れた今の若者は十分に戦車を動かすことは出来るし、飛行機でさえ操縦できるのではないか。今の機械は殆どがCPで制御されている。ゲームで馴れた最近の若者なら、年寄りが考えるほど、ハイテクの武器が扱い難いとは考えられない。それとも若年者の召集は企業から人材の枯渇を招くという反対意見が出るだろうから導入はされないということだろうか。

嘗て敗戦の我が国は、満州で40代の中年を召集し、現地に集めたが、集められた人手200人に対し、馬は3頭、本来はサーベルを腰につるのにゴボウ剣を配布され、そのゴボウ剣も着剣すべき銃はなく、木銃を渡されたという。本来騎兵を召集し、乗る馬がないこれでは戦にならないと云うことで、勝手に解散して逃げ出したという話を聞いたが、こういう徴兵の仕方をすれば、おっゃる通りハイテク兵器は使えない。

更に北岡氏は戦後70年の安倍晋三談話に関する有識者懇談会(21世紀構想懇談会)座長代理をお勤めになっている。

その彼が安全保障関連法案の国会審議について「違憲か合憲か」という入口論や、「戦争法案だ」「徴兵制に繋がる」といった荒唐無稽な批判が目立ち、法案の必要性や「これで十分なのか」「行きすぎはないのか」という具体的論議が出来ていない。また、法案に対する批判の中には、自衛隊の海外派遣に「歯止めがない」という指摘があるが、事実と違う。最大の歯止めはシビリアンコントロール(文民統制)だ。時の政権が判断を誤り、無用な犠牲を出した場合、国民の厳しい審判を受けて内閣は倒れる。だからこそ内閣は慎重に決断せざるを得ないと宣っている。

しかし、この様な楽天的思考でいいのだろうか。日本国内に基地があり、そこからミサイルや飛行機が飛んでくる。あるいは物資が送り込まれると云うことが解れば、そこを叩こうとするのが普通は常識だろう。ミサイルを数発撃ち込まれれば、文民統制で国民の審判などといっている暇はない。

こう云えば、だからこそ抑止力としての今回の法案成立が必要だというかもしれないが、膨張主義を取る国家や、常識を越えた判断をされる国家からすれば、そんな物は歯牙にもかけないと云うことではないのか。

                (2015,9,24.)