Archive for 8月 2nd, 2015

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§蹌々踉々[6]

日曜日, 8月 2nd, 2015

                                                                        鬼城竜生

                              『水準を測る物差し』

薬科大学の6年制移行に伴う実務実習が、いよいよ現実の問題として身近に迫ってきた。現在までに、教育に携わる薬剤師の水準問題について、色々論議され、専ら実習指導者としての薬剤師の適正を論ずるものが多く見られたが、不思議なことに、実習受け入先である病院の水準についての論議は、あまり見られなかったような気がする。しかし、実際的な問題として云えば、人の問題もさることながら、教育現場としての施設(病院薬局)の業務水準がより問題なのではないか。例えば、350床の病院であれば、全国どこでも同じ水準の医療を提供していると考えていいのか。また全ての病院の薬局は全く同じ設備を保有していると考えていいのか。例えば製剤室を保有しているのか。その製剤室は、湿性と乾性に区分されているのか。あるいは無菌製剤室はあるのか。注射薬調剤室はあるのか等々、受け入れ施設の水準を測る物差しを明確にすることが必要ではないのか(呑)。

 

                        『副作用にならない薬の服み方』

高脂血症の治療薬を服用し始めた。その程度の検査値なら薬の服用はいいのではないかと申し上げたのだが、年齢的な問題もあるからというのが処方した医師の御宣託である。院外処方せんが出されたため、調剤薬局で調剤して貰ったが、御多分に漏れずお仕着せの薬の説明書を渡された。その説明書を拝読しているうちに、記載されている横紋筋融解症の前駆症状に引っかかった。筋肉痛、脱力感の記載がされているが、何処の筋肉が痛むのか、筋肉痛の痛みの程度はどの程度なのかの判断の基準については何の記載もなく、貰った側には不満が残った。例えばキーボードの叩き過ぎで出る筋肉痛と、前駆症状としての筋肉痛の区別がつかなければ、判断のしようがないということである。脱力感についても、どういう状態になるのかの具体的な説明がされていない。それ以上に、今度は是非、横紋筋融解症にならない服み方について、説明を求めたいと思っているが、どうであろうか(呑)。

 

                                  『時の流れ』
                                       
日本薬剤師会雑誌の判型がA4判に変わったのは、2003年1月号からと記憶している。従来、我が国で多用されてきたB5判という判型は、和紙の判型であり、貿易障壁の一つとして、米国から強硬な苦情が出された。つまり官庁への提出書類をA4からB5に書き換えるのが大変だということである。そこで官庁への提出書類の判型はB5からA4に変更された訳だが、それに伴って、今後、官庁で使用する用紙は、全てA4判とすることが決められた。従来、我が国で発行される雑誌は、B5判であったが、その後A4版に移行するものが増えてきた。雑誌が移行するのは、何等かの規制があるからではなく、B5判に比べてA4判の方が割付がし易いという実務的な問題であり、特に横組みで写真や図を多用する雑誌の場合には出来上がりがいいということである。ただし、未だにB5版の判型を守っている雑誌もあるが、時の流れに抵抗するの意識でやっているのかどうか(呑)。                                               

                                             

                          『患者に求められる薬剤師』

薬剤師である以上、本来所持していなければならない機能を専門特化することが流行のようである。勿論、仕事として望まれるから専門特化を考えるのであろうが、その希望が患者の期待と一致しているのかどうか。本来薬剤師の仕事は、裏方的仕事であり、医師抜きで直接患者の治療に手を出すことはできない。癌専門薬剤師にしろ、感染専門薬剤師にしろ、チームの中の一員として、治療に協力するということであり、薬剤師としての存在感は、チームの中に埋没する。しかし、専門特化は結構だが、全ての薬剤師が特化される必要はないだろう。医師が専門特化しすぎて、一般診療ができない医師が増えたことが問題とされてきた。薬剤師も万遍なく何事でもこなせる薬剤師は必要であり、患者と話せる人間的に円満な薬剤師も必要なのである(呑)

                                                                      [2015.8.1.]

『恐れ入谷の鬼子母神』

日曜日, 8月 2nd, 2015

                                                                        鬼城竜生

入谷に富士講の作った御山を見るために出かけることにしたが、さてどう行くかということで頭を悩めてしまった。目的の御山は小野照崎神社の境内にあるが、ついでに予て念願の「入谷の鬼子母神」によってみたいと考え、地図を見ると日比谷線の入谷駅の2番口か近いということになっていたので、蒲田から京浜急行の特急に乗り都営浅草線の人形町駅で日比谷線に乗り換え、入谷駅で降りるという行程をとることにした。入谷駅二番口から外に出て、鬼子母神を探したが、至近の距離にあるはずの鬼子母神が見当たらなかった。交差点で見回しているうちに、お寺より先に、交差点の向かい側に昔懐かしい『三富』という飲み屋の看板が目についた。

現役の頃加盟していたい東京医労連の上部団体、日本医労連の会館は入谷にある。現役の頃会議で何度か訪れたことが有り、会議の終了後、御多分に漏れず酒になるが、その時に何度か吞んだことの在る店が『三富』で、それが交差点の向側に見えたと云うことは、現役の頃周りを見てさえいればその当時行けたと云うことである。

今回ここに来たのは、小野照崎神社の境内にある富士山の御山開きが6月30日と7月1日の両日行われ、普段は閉めている御山に登れると云うことで、その写真を撮りに来たのだが、序でに兼ねて耳にしていた入谷の鬼子母神が近いというので、寄ってみようという気になimageっていた。所で『恐れ入谷の』の入谷は、場所の話しではなく「恐れいりやした」という江戸言葉と「入谷」の地名を掛けた物でimage、入谷(台東区下谷)の真源寺に祀られている「鬼子母神」を続けて云ったしゃれで、特段意味があるわけではないが、江戸時代には流行っていたのかもしれない。

真源寺は、法華宗本門流の寺院で、山号は仏立山である。万治二年(1659年)光長寺20世・日融が、当地に法華宗本門流の寺院を開山したことによるとされている。鬼子母神を祀っていることで、入谷鬼子母神の名称で有名な寺院である。鬼子母神(きしもじん・きしぼじん)は、インドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供を産んだが、その性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれていたという。これがお釈迦様の教えを受け、改心して出産・育児の神となったという。雑司ヶ谷にも祀られているが、人によく知られているのはこの『恐れ入谷の鬼子母神』という俗諺で知られているこちらの方ではないのか。更に7月6日-7日に行われる朝顔市でも知られている。

何処にあるのか見回しているうちに三富の斜め向かいに寺院が見えた。しかし、あまり広いとも思えないお寺で、半信半疑横断歩道を渡ったところ、朝顔市の準備が盛んに行われていた。2-3枚写真を撮って邪魔になるといけないので早々に失礼した。しかしこの広さで、どうやって朝顔市をやるのか、興味のあるところである。

小野照崎神社は、小野篁(たかむら)を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る。852年(仁寿2年)この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎したのが起源と伝わる。寛永年間(1624年-1643年)、寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現社地に遷座した。江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わる像を迎えて相殿に祀り、「江戸二十五天神」の一つに数えられた。樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出ていると云う。

小野照崎神社の境内に聳える富士山は、江戸に富士信仰を布教した「南沢正兵衛」の門人である「山本善光」が、氏子はもとより江戸八百八町に広く浄財を募り、富士山より岩石を船積みして運び、隅田川より荷車にて当imageimage地まで陸送し、天明年間(1782年)に築山されたものであるという。大変な時間と大勢の労力と、更には当時の人達の信仰心の篤さには驚かされるものがある。冨士浅間神社の例祭である御山開きは例年6月30日・7月1日の2日間に斎行される。開山式として御仮屋での神事の祓主を先頭に斎主・祭員、氏子崇敬者が列立し、『六根清浄』を唱えつつ一合目から頂上まで登る。頂上では四方祓いをし、天下太平・五穀豊穣と平和の祈りを捧げて、本山である富士山に向かい遙拝をした後に下山し、登拝を終えるとされている。

1年間で2日間のみ山門を開け、登拝を許し、龍神守り等の授与品もこの時だけの頒布とされている。その他、お山開きの御朱印、蛇土鈴・朝顔土鈴・茅の輪守りを頒布している。
築山されて220年にならんとする月日が流れ、登拝が年に2日間だけであることから蔦や草の根がしっかりと土に張り巡らされ、土を強固にし、風雨に堪えて昔のままの姿を維持している。昭和五十四年国の重要有形民俗文化財の135号として指定されている。

小野照崎神社には茅の輪が飾られていた。茅の輪神事、輪越祭、茅の輪くぐり等と云われる神事で、1年の丁度半分を過ぎた旧暦6月 30日の夏越祓 (なごしはらえ) に用いられる。茅とは、茅萱(ちがや)、菅(すげ)、薄(すすき)などの総称で、この輪を潜り抜けることで、罪やけがれを取り除き、心身が清らかになるようにお祈りするもので、神事である以上潜り抜け方には約束事がある。かつては茅の輪の小さいものを腰につけたり首にかけたとされる。

この神事の起こりは、素盞鳴尊(すさのおのみこと)が、旅の途中で、蘇民将来(そみんしょうらい)、巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで宿を求めた。弟の巨旦将来は、豊かな生活をしていたのにそれを断り、兄の蘇民将来は、貧しい暮らしをしていたにも係わらず、素盞鳴尊を泊めて、しかも厚いもてなしをしたという。その後何年かたって素盞鳴尊は再び蘇民将来の家を訪れて、「もし悪い病気が流行することがあったら、茅で輪を作って、腰につけておれば病気にかからないですむでしょう」と教えたという。

それ以降「蘇民将来」と書いた紙を門に貼っておくと災いを免れるという信仰が生まれたという。茅の輪も、最初は人々が腰につけるほどの小さなものであったが、時代がたつにつれて大きくなり、現在のような神事になったとされる。

                                                                    (2015.7.10.)