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『若宮八幡宮』

日曜日, 8月 19th, 2012

         鬼城竜生

川崎駅から大師線に乗り換え、大師駅で降りる場合、川崎大師にお参りに行くことが目的であるが、今回は、行き先が違った。とはいえ、今迄何回か川崎大師に出かけていたが、大師駅の直ぐ前に神社があるなんてことは全く気付かずにいた。大師駅から川崎大師までの道を地図で辿っていた時に、駅の直ぐ近くに神社の記号が見えたので調べてみたら『若宮八幡宮』という名若宮八幡-02前に行きあった。

神社で頂戴した由緒書きによると、若宮八幡宮の御祭神は仁徳天皇(大鷦鷯尊:おほさざきのみこと)されている。大師河原の総鎮守(大師地区に存在する水神社、川中島神明神社、塩浜神明神社、汐留稲荷神社、日の出厳島神社、田町稲荷神社、田町厳島神社)。八幡塚六郷神社(大田区東六郷。御祭神:応神天皇)の氏子達が大師河原干拓のために移り住み、守護神として祀ったのが若宮八幡だと説明している。八幡様(応神天皇)の若宮様(仁徳天皇)が御祭神なので“若宮八幡”という名前が付けられたという。

仁徳天皇は淀川の治水工事を完成させたことから干拓事業の守護神として崇められていることから、祀られたもので、多摩川の洪水に悩まされていた大師河原の人達の心からの願いが込められたもので、また、仁徳天皇の御製「民の竈を賑わいにけり」にあやかる意味もあるのではないかとされている。創建年代については明白ではないが、『小田原衆所領役帳』に永禄二年(1559年)に朱印地三石と記されていることが初見されるという。

源頼朝が、鎌倉攻略のとき、この地に陣を張り勝利し、その御礼に鶴岡八幡宮を分祀した八幡塚六郷神社を分祀したのがこの神社だとする紹介もされている。例祭日は8月の第一土曜日、第一日曜日又は第二日曜日とされているが、どっちかに決めといてくれないと氏子以外の参詣者はお祭りを外すことになってしまう。

同じ敷地内にあるのが“金山神社”で、御祭神は金山比古神、金山比売神で、俗称“かなまら様”と呼ばれるとされており、鍛冶屋と性の神様とされている。金山神社は、明治中期まで京浜急行電鉄・川崎大師駅前にあったという。京浜電気鉄道(現:京浜急行電鉄)が当時終着駅だった大師駅に折返し用のループ線施設を建設する際、同位置に金山神社が存在していたため、神社ごと現在の若宮八幡宮境内に遷された。

金山神社の祭神は、鉱山や鍛冶の神である金山比古神(かなやまひこのかみ)と金山比売神(かなやまひめのかみ)の二柱で、「金山(かなやま)」と「金魔羅(かなまら)」の読みが似ていることや、両神若宮八幡-03がイザナミが火の神カグズチを産んだ際に下半身に火傷をし病み苦しんでいるときにその嘔吐物(たぐり)から化生したこと、鍛冶に使う鞴(ふいご)のピストン運動が男女の性交を連想させることなどから、性神としても信仰されている。御神体は金属製の男根であることから、「かなまら様」(金魔羅様)とも呼ばれている。またこの神は鞴祭りの神でもあり、鍛冶職人や金属・金物を扱う商人・企業等により、毎年神前で鞴祭りが行われる。その他、昔の川崎宿の飯盛り女達からはお金を作る神、性病除けの神として信仰されていた等の紹介がされている。現在ではその他、子授け・夫婦和合・性病快癒を願う人々からの信仰を集め、特に子孫繁栄・夫婦和合・性病快癒・安産・下半身の傷病治癒などに霊験があるとされている。境内には多数の男根形が奉納されている。

祭礼には御神体(男根)を模した神輿を担ぎ出し、面掛行列などが行われる。金山神社の社殿は平成十一年に建て替えられているが、建て替えるに当たり鉄をイメージし、外側を鉄板で覆い、黒一色の一辺約3mの正八角形、高さが8mの吹き抜けで凡そ一般的にいう神社とは異なる社殿となっている。内部の床の半分は土で固めた土間として仕切り、正面中央部に鞴と炉を置き、金床埋め込んで鍛冶屋の作業場を再現してあるという。毎年4月第一日曜日に行われる例祭かなまら祭りは、大らかな雰囲気から特に外国人に人気があり「歌麿フェスティバル」として大師の風物詩になっているという。

若宮八幡宮の境内に併祀されている神社として金山神社以外に藤森稲荷神社(御祭神:宇賀之御魂神)、大鷲神社(日本武尊)、厳島神社(市杵島姫神:いちきしまひめのかみ)3社があるが、藤森稲荷神社は明長寺付近に祀られていた稲荷神社で、境内に藤の大木があったことから藤森稲荷と云われていた。商売繁盛、子供の夜泣き、疱瘡にも御利益があり、サンダラボッチに赤い御幣を立てて十一日間御参りをして側の二ヶ領用水に流したという。

大鷲神若宮八幡-04社は熊手市の立つ商売繁盛の神様。亡くなられた後に八尋白智鳥になって飛び去ったという古事記の英雄、日本武尊を祀った神社。物を取り→鳥→鷲の語呂合わせから商売繁盛の神様となった。

厳島神社は田町川岸に祀られていた弁天様で、海海苔漁師達の守護神だった。川崎漁協が昭和61年4月14日に解散したため、神社護持の後継が途絶えるのを恐れた有志が、同年4月16日に若宮八幡宮参集殿2階郷土資料室の中に御遷座した。御神体は伝教大師作と伝えられる大黒天、多聞天を従えた三座形式の弁天様が波のレリーフの上に座っており、十五童子(二体欠損)がその下で戯れ、更に馬、俵を積んだ船、千両箱が飾られているという。

ところでこの神社、10月の第3日曜日に行われる“水鳥祭”も変わった祭だと云えるのではないか。慶安二年(1649年)5月に、大蛇丸底深(だいじゃまるそこふか・大師河原開拓に成功し、名主となった池上太郎右衛門幸広)のもとに、地黄坊樽次(じおうぼうたるつぐ・前橋藩主の酒井忠清の籠臣、医師で儒学者の茨木春朔)が、酒豪を引き連れて、大師河原に乗り込み、三日三晩、酒飲みの強さを競ったという実史にのっとった豪快な酒合戦の物語を、実際にお酒を飲みながら競った様を再現したお祭と紹介されているが、酒飲みには嬉しいお祭りかとも思うが、写真を見る限りあまり参加したくないとも云える。顔に隈取りをするのは勘弁願いたい。最も氏子以外は参加出来ないのかもしれないので、心配することはないか。

若宮八幡宮の由緒書きを見ると神様の世界も世知辛くなっていると思わざるを得ないが、今回、2012年2月2日(木曜日)の御参りは突然思いついて出かけたので、この神社だけで戻ってしまった。従って総歩行数は5,271歩と一万歩には遠く及ばなかった。

          (2012.6.2.)