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「神楽坂あたり」

日曜日, 1月 30th, 2011

       鬼城竜生   

絵馬は祈願のために社寺に奉納する絵入りの板額をいい、起源は古代、神に生きた馬を献上した習俗に発している。呪術的儀礼として、土馬や木馬の献納が行われ、やがてこれが板絵馬に変わり、室町時代以降には、大型絵馬も作られた。

神楽坂-01画題も豊富になり、馬図を一番にして武者絵、歌仙絵、舟、生業、風俗、祈願者の姿や干支の動物など、様々描かれた。中には専門絵師の手になるものもあったが、民芸的な画趣を具えた絵馬が多かった。

例えば「柘榴図」(奈良・東大寺)。柘榴は鬼子母神の持ち物だった。たくさんの実を結ぶため、こんな絵の絵馬は、子授け安産を願っての奉納と考えられる。また「母子入浴図」の絵馬は、子どもがおとなしく入浴してくれるのを、親が祈願したものだろう。

「草刈鎌と籠図」(東京・草刈薬師)の絵馬は、瘡(カサ)や腫物を草になぞらえ、平癒を願ってのものに違いなかった。各地の社寺には、こうした機知に富んだ絵馬が、よく奉納されているのである[澤田ふじ子:祇園社神灯事件簿五-神書板刻;中公文庫,2010]>

「草刈薬師」というのは聞いたことがなかったので、Internetで検索してみることにした。何と神楽坂にあるという話である。

神楽坂-06前回(4月22日)木曜日、大学のクラス会の仲間の何人かが東西線竹橋駅1A改札口で待ち合わせて、皇居東御苑・神楽坂の散策が計画された。生憎の雨だったが、平川門より入苑(約1時間苑内)北詰橋門より退苑。→武道館前を通り、靖国神社→外堀通りを経て神楽坂「志満金 」で昼食。その後、神楽坂を散策、4時に「紀の善」で甘味を食して解散という行程を歩く計画を実行した。しかし、その時は雨が降っていたので、落ち着いて写真を撮っている暇が無かった。原稿を書くのに写真が必要なので、同じ行程を歩く計画を立てていたが、同じところをという思いがあり、今一つケツが重かった。

しかし、今回、澤田さんの小説を読み“草刈薬師”で検索したところ神楽坂にあるということが解ったので、意を決して出かけることにした。後一つには“草刈薬師”が最近“閻魔薬師”といわれているというInternetの情報も閻魔好きとしては見逃せないということである。

そこで6月17日(木曜日)梅雨の晴れ間を狙って出かけることにした。家を10時に出たいと思っていたが、色々手間取って、駅に着いたのは10時30分を過ぎていた。

“梅雨入りの晴れ間を盗み街を行く”

都営浅草線の日本橋駅で降りて東西線に乗り換え竹橋駅で下車する。パレスサイドビルB1の“竹はし”に入りロースカツ定食で先ず朝昼兼用の昼飯を食神楽坂-07った。その後A1出口から出て平川門から皇居東御苑に二度目の入場を果たした。前回の時は天守閣跡天守台を降りて直ぐの所にある桜の島で遅咲きの桜が見えたが、今回は、濃くなった緑が見えるのみである。只、紫陽花の花はあちらこちらに咲いていた。

前回は靖国神社の第二鳥居の前を通り過ぎただけであったが、今回は御朱印を頂戴しようと、参集殿に寄った。その後、遊就館の横を通って衆議院議員宿舎・東京逓信病院横を抜けて外堀通りに出た。飯田橋駅前で牛込橋を渡り、神楽坂に入った。神楽坂の中央にある毘沙門天善国寺は、前回御朱印だけは頂戴していたので、今回はお賽銭を上げて写真を撮らせて戴いた。只本堂の中は撮影禁止であり、撮したのは外回りだけである。そういえば靖国神社も神殿の前の階段から社殿に向けて写真を撮るのは禁止だといっていた。

毘沙門天善国寺は、日蓮宗のお寺で、創設されたのは、桃山時代末の文禄四(1595)年で、今からおよそ四百年を遡るといわれる。初代住職は佛乗院日惺上人で、池上本門寺十二代の貫首を勤めた方であるという。上人は、二条関白昭実公の実子であり、父の関係で徳川家康公と以前から親交を持っていた。上人が遊学先の京都より、本門寺貫首として迎えられてから九年後の天正十八(1590)年、家康公は江戸城に居を移し、二人は再会することになった。そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご神楽坂-08祈祷を修した。それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山号・寺号額をしたためて贈り、開基とされた。

徳川家の中で、法華経への信仰が厚いといえば、それは黄門様で有名な水戸光圀公である。光圀公も、善國寺の毘沙門天様に信をお寄せになり、寛文十(1670)年に焼失した当山を麹町に移転し、立派に再建されたのである。この縁由により、爾来当山は徳川ご本家、並びにご分家の三郷のうちの田安・一橋家の祈願所となったと紹介されている。

当山はその後も享保、寛政年間と類焼の厄にあい、殊に寛政四(1792)年の火事により、当、神楽坂へ移転してきた。今から約二百年前のことである。尚麹町の遺跡は、今の日本テレビ通り、麹町三丁目交差点の脇の歩道に建てられている黒御影の『善國寺谷跡』の石碑により。往時を偲ぶことができる。

毘沙門天様への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には庶民の尊崇の的ともなり、江戸の三毘沙門の随一として、《神楽坂毘沙門》の威光は倍増していった。当初は殆ど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、善國寺の移転に伴い、麹町より、よしず張りの店が九軒当寺の門前に移転するなど、除々に民家も増え、明治初期に花街も形成され、華やかな街になっていったとされる。しかし、昭和二十年の東京大空襲では、善国寺も灰燼に帰するところとなった。しかし、同二十六年には毘沙門堂を再建、四十六年には地元の信者が中心になり本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされた。

毘沙門天は、神楽坂-09インド出身の神様で、サンスクリット語(インドの古語)では「ビシュラバナ」と表記し、この音写が「ビシャモン」である。言葉としては「全てを聞く」という意味を表す。毘沙門天は仏法を守る役目を担い、四天王の随一として北方守護を司る。また、多聞天とも号し、文字通り、参詣者の願い事を《多く聞いて》下さり、七福神のお一人として、日々福を授けて下さっている。    

大久保通り、神楽坂上の交差点で右前方を見たら“安養寺”というお寺が眼に入った。確かここも古いお寺だということで、横断歩道を渡って門の中に入ると江戸三十三観音十六番札所との案内がされていた。当寺は天台宗のお寺で醫光山安養寺と称する。薬師さま・聖天さまのお寺とされている。十一面観音が祀られている御堂の玄関脇に“御朱印”の方は左手の建物のベルを押してと書いてあったので、指図に従って“御朱印”を御願いした。その時、戴いた“神楽坂・安養寺”の四つ折りによると、次の説明が記載されていた。

当寺の開基は、天台宗祖伝教大師(でんぎょうたいし)最澄上人(766?822)の高弟慈覚大師円仁和尚(794?864)といわれている。史料によれば、往古は江戸城内にあったが、徳川家康公が江戸城入府の際、平川口より当地に移された。爾来300有余年、周囲の変化により往時の半分以神楽坂-12下に寺域は狭まったとされる。但し、その位置は古地図と変わりが無く、歴史の古さを物語っている紹介されている。確かに本尊の薬師如来は丈六坐像(2m余)の金銅仏でと紹介されているが、御堂の中に窮屈そうに坐っておいでになったところを見ると、昔は相当大きなお寺だったのだろうという想像は付く。大久保通りが作られて削られたり、色々あって狭くなってしまったようである。

安養寺を出て“草刈薬師”に行くべく、更に早稲田方向に暫く上がる。左手にキムラヤという屋号の店があり、その横町に入ったところに“草刈薬師”はあるはずである。ところが横町に入ってみたが、思わず「エッ」というのが正直な所である。“草刈薬師”は薬龍山光圓寺正蔵院というのが正式な名称のようであるが、普通の仕舞た屋みたいな建物で、門柱には「草刈薬師如来、閻魔大王尊、安置」書かれており、そこがそうだとは思うが、玄関は閉められており、どうにもしようがないという感じだった。仕方がない、帰るかと思っているところに右手の家のガラスの引き戸が開き、男性が顔を出した。

今から直ぐ開神楽坂-13けますからということで、今日は用事があって早めに閉めましたが、開けますから御参りしていってくださいとのことであった。部屋に上げて戴き、御参りを済ませたところで、暑い中を大変だったでしょうと言うことで、冷たいお茶と水羊羹を出して戴き、暫く話をして戴いたが、その時話をした“鎌と籠”の絵馬については、どうやら当寺とは係わりがないような感じであった。閻魔の写真を撮らせて戴いてよろしいですかとお伺いしたところ快く許可を戴けた。

天台宗東京教区のHPによると、“草刈薬師”の開創は長禄年間 (西暦1458年頃)で、本尊は薬師如来である。僧圓觀の創立。元・豊島郡千代田村にあった後、 田安門に移り、慶長五年(1600) 取払いとなり、 元和二年(1616) 僧圓海が今の地に再興。 明治四十四年七月には同町にあった養善院を合併した。 江戸名所図会によると、 当寺は東叡山に属し、開山圓觀律師。 長禄年間 (1458年頃) 太田左金吾道灌が当寺を創建。 前は梅林坂 (御城内)にあり、 後年田安の地に移され元和二年今の地に替えさせられたとあります。 戦災で堂宇全焼失、 その後小宇を再建、 現在に至っています。

本尊は薬師浄瑠璃如来、 一寸八分の小さな御本尊で、通称 「草刈薬師」と言い、 その由来は略縁起によると、 太田左金吾道灌が今の宮城の基であ神楽坂-14る江戸城を築こうとして、千代田の野辺に茂る草を刈らせている時、一人の僧が現れ一体の薬師如来を道灌に授け、「この尊像は後醍醐天皇に味方し奥州白河に流された北条高時が日夜護念していた伝教大師真作の薬師如来である。  このご利益は国家の安泰のみならず庶民の現世災厄を除き未来得脱の果報が得られる有難き尊像である。  今国家の乱れを鎮めようとして城を築こうとしているあなたに授けよう」 と言ったとあります。そして尊像を授けられた道灌が城内の平川梅林坂に正蔵院を建て、 圓觀上人を別当に補したとあります。 又、脇本尊は合併した養善院の本尊であった閻魔大王尊です。 以前のお閻魔さまは坐像七尺、 鎌倉期の大仏師運慶の作と伝えられていましたが、 戦災で焼失。その後、府中の在家の方が持仏としてお守りしていたお閻魔さまとお不動さまを寄進していただき安置しております。都内のお閻魔さま巡りも盛んになっていますが、「草刈薬師」 が何時の間にか 「草刈閻魔」となって一部で知られるようになっています。

前回の総歩行数は13,026歩。今回の総歩行数は13,209歩で、殆ど歩行数に変わりがないというのは全く同じ歩き方をしたということなのか。

   [2010.6.19.]