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「墨堤-牛島神社・三圍神社」

月曜日, 12月 27th, 2010

    鬼城竜生     

 

何時もは、桜の時期になると、写真を撮るために、池谷本問寺に出かけている。しかし、今年は別のところに行こうということで、隅田川の土手に行くことにした。本当は、桜の木に電線を這わせ、提灯をぶら下げる桜祭りなるものがあまり好きになれず、そういう桜の場所は避けるようにしていた。

墨堤-01今回、隅田公園の桜を目指したのは、満開の桜を橋の上から撮ったと思われる写真が雑誌に掲載されており、結構面白く撮れているなと感じたからである。勿論、何処から撮したのか、場所は書かれていないので、墨堤に出かけたからと行って、同じような写真が撮れるとは限らないが、行かなければ全く話にならない。更に前から気になっていた神社として“牛島神社”、“三囲神社”が、地図上で墨沿いに描かれていたので、ついでといっては悪いが、参拝することにした。

都営浅草線の浅草駅で降り、吾妻橋の袂に向かった。吾妻橋の対岸には、例の金の雲を乗せたアサヒビールのビルがあり、その左側には工事中の東京スカイツリーが見えた。橋の欄干から墨堤を眺めてみたが、満開の桜は見られず雑誌で見た、白一面の墨堤という雰囲気は見られなかった。橋を渡った右手の角に“すみだ観光案内所”の看板が見えたので、案内図でもあればということで寄ってみた。案内所で貰った“すみだ観光ガイドマップ”を見ると、アサヒビールのビルの前を過ぎて直ぐの所に勝海舟の銅像が見える。枕橋を渡墨堤-04って隅田公園に入ると直ぐの所に牛島神社が見える。

牛嶋神社は、隅田川の東岸、元水戸徳川邸跡の、隅田公園に隣接して鎮座している。古くは向島須埼町にあったが、関東大震災後、昭和の初め現在地に再建された。明治維新前は、本所表町の牛宝山明王院最勝寺が、別当として管理していたが、明治初年の神仏分離後「牛の御前」の社名を牛嶋神社と改めたとされている。隅田川に沿う旧本所一帯の土地を昔「牛嶋」と呼び、その鎮守として牛嶋神社と称した。

神社に残る縁起書によると貞観2年(860)頃、慈覚大師(円仁)が御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀。後に天之穗日命(あめのほひのみこと)を祀り、次いでこの地で亡くなられた清和天皇の第七皇子貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)が祀られた。牛嶋神社の御祭神は墨堤-06この三柱の神々であり、例祭日の九月十五日は貞観の昔に初めて祭祀を行った日であるといわれる。摂社として小梅稲荷神社が祀られている。

治承4年(1180)源頼朝が大軍を率いて下総国から武蔵国に渡ろうとした時に、豪雨による洪水の為に渡ることが出来ず、武将千葉介平常胤が祈願し、神明の加護によって、全軍無事に渡ることができたので、頼朝はその神徳を尊信し、翌養和元年(1181)に社殿を造営すると共に多くの神領を寄進した。

更に天文七年(1538)に、後奈良院より「牛御前社」との勅号を賜ったとされている。永禄十一年(1568)、北条氏直が関東管領であった時、大道寺駿河守景秀が神領を寄進している。江戸時代には鬼門守護の神社として将軍家の崇敬厚く、三代将軍家光から本所石原新町の土地の寄進を受け、祭礼渡御の旅所となった。現在の摂社若宮はその一部だとされる。

総檜権現造り、東都屈指の大社殿を誇る牛嶋神社は、平成十九年に御鎮座千百五十年の記念大祭を挙行、氏子五十町・牛島講の守護神として、崇敬尊信を集めている。

墨堤-05「牛嶋の撫で牛」:この撫で牛は、江戸時代初期に牛嶋神社の境内にまつられた「撫で牛」の石像に因んで、奉製しました。「撫で牛」は
自分の心身の悪いところを撫で、牛像の同じところを撫でて祈願すると、心身が回癒するという、古くからの信仰が伝えられており、また、子供が生まれたとき「撫で牛」によだれ掛けを奉納して祈願すると、子供が健康に成長するという言い伝えがあるなど、現在でも数多くの方に敬愛され続けているとする解説が頂戴した紹介文に記載されている。

牛嶋神社で、金属板の牛が貼り付けられた絵馬があったので丑年生まれということもあり頂戴してきて部屋にぶら下げてある。勿論御朱印は頂戴してきた。

次ぎに言問橋の際を通り越して桜橋方向に進むと“三圍神社”に行き当たる。但し“みめぐりじんじゃ”は流石の電子筆も一発変換はできず、辞書登録しなければならなかった。

三圍神社略記によると、当神社は宇賀之御魂命(うがのみたまのみこと)を祀る。創建は明らかでないが、社伝によると古く弘法大墨堤-14師の勧請によるという。また文和年間(南北朝時代)近江三井寺の僧侶源慶による社殿再建の際、出土した壺を開けると老翁の神像があり、どこからともなく白狐が現れ、神像を三度めぐって去っていったので、「みめぐり」と呼ぶようになったと伝えられている。

その後、南北朝から江戸時代にかけて戦災や隅田川築堤による数度の変遷を経て現在の地に鎮座した。古くは“田中稲荷”と呼ばれ、後に“みめぐり(三圍、三囲)稲荷”と呼ばれる霊験あらたかな墨東の古社であったが、中でも当社を有名にしたのは宝井其角の雨乞いの献句であった。元禄六年は春から干ばつで、近辺の農民は「みめぐり」の社頭に集まり太鼓を叩いて雨乞いの祈願をこらしていた。そこへ其角が門人の白雲と共に参詣にきて農民の悲嘆を知り、能因法師や小野小町の故事に因んで一句を詠んだ。

其角の俳書「五元集」に、牛島三廻の神前に雨乞いする人にかわりて

『遊ふ田地(夕立)や 田を見めぐりの 神な墨堤-22らば』

翌日雨降るとある通り、早速の感応があり、このことは世間の評判になって、特に文人墨客たちの崇敬を集めた。後に京都の豪商三井氏が江戸に進出するとその霊験に感じ、江戸における三井の守護神と崇めて社地の拡張、社殿の造営を行った。現在の姿はほぼこの頃に造営されたものである。なお、今も年三回は三井関連会社による祭典が執行され、また三越の本支店にも当神社の分霊を祀っている。

境内にある摂社の中でも、元越後屋に祀られていた大国神・恵比寿神像は隅田川七福神の一つとして名高く、また数十を数える石碑のうち主なものを挙げれば、其角雨乞いの碑、宗因墨堤-23白露の碑、川柳の諸碑等々であり、本殿東側にある老翁老媼の石像は、其角の「早稲酒や狐呼び出す姥がもと」の句によって知られている[三圍神社略記]。

末社・摂社:主夜神社(飯綱権現相殿)、道了権現十勝明神合社、五坐社(白藤稲荷、金比羅、宇賀神、不動、弁天)、大黒恵比須合社。

三圍神社の裏手に3本足の三柱鳥居があり、その中央に井戸があるが、江戸名所図会にも新編武蔵風土記稿にもこれは記載されていない。京都の木島坐天照御魂神社(蚕の社)などに3本足の鳥居をもつ神社があるとされる。三圍神社の三柱鳥居は、享保元年(1716)の三井氏登場以降、明治に入ってから置かれた鳥居とみられているとする紹介がされている。

三囲のライオン像:三越池袋店より移築。原形はロンドン・トラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像。青銅製。三越のシンボルであるライオン像は大正三年、当時の三越支配人だった日比翁助のアイデアにより、三越がライオンのような王者になるようにとの願いを込めて本店に二頭の墨堤-26ライオン象を設置したのが始まりです(日比翁助のライオン好きは自分の息子に「雷音」と名付けるほどでした)。

当神社と三越との関係は、三井家の家祖・三井高利が江戸に進出してきた折、江戸における三井家の守護神としたことから始まり、その縁により平成二十一年十月、三越池袋店のライオン像が境内に移築されました[神社配布一枚紙]。

三圍神社は時代物の小説に屡々取り上げられている神社である。それからすると相当大きな神社であろうと勝手に思っていたが、実際にはそれほどではなかった。しかし、末社・摂社の数は多いし、句碑や石碑の数が多く、その意味では流石に名前の通った神社だと感心した。更に三井家との関係は密接なようで、裏門の鳥居を潜った右側に古い社が独立して鉄格子で囲われていたが、これは三井家縁の社(「顕名神社」)のようである。
2010年3月31日(水曜日)11,240歩。

(2010.9.7.)