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「だらしのない話」

土曜日, 12月 25th, 2010

魍魎亭主人    

 

2010年9月8日に行われた衆議院厚生労働委員会で、後発医薬品への変更調剤で、患者に副作用が発現した場合、後発品を選択した薬剤師に責任が及ぶかということに対し、長妻厚労相が『医師が先発医薬品を適正に処方することを前提に、薬剤師が先発品の範囲内で後発品に変更したときには、医師や薬剤師に副作用の責任は生じない』との考えを明らかにしたということで、日薬が『後発品使用を進める上で、政府としての後押しをして頂いたと理解している』との談話を発表したという[日刊薬業,2010-09-10(5/7頁)]。

薬剤師が調剤した結果において、責任を問われるとすれば、それは調剤過誤を起こしたときである。医師の記載した処方せん通り調剤している限り、その薬を服んだことにより副作用が出たとしても、薬剤師が責任を問われることはない。更に医師の場合も誤診がなく、説明責任が果たされている限り、服用した薬による副作用で、責任を問われることは無いはずである。

ところで後発品の調剤の場合、医師の薬物変更可の意思を確認した後に薬剤師が同一組成薬(後発品:generics)を選別して調剤する。この流れの中で、薬の取り違えさえなければ、薬剤師が薬の副作用で血祭りに上げられることは無いはずである。ただ、『その薬を選択した理由』は明確にしておかなければ不味いだろう。医師が処方する薬に対し、変更可という意思表示がある場合、同一成分の薬の中から薬剤師が選別したものを使用してよいということであり、薬を選別する責任は医師から薬剤師に委任されたと考えられる。

従って、薬剤師が後発医薬品の選択をするという行為は、患者に対する責任だけでなく、処方医に対する責任も背負い込むということなのである。後発品は、同一組成で、どの薬でも同じだから阿弥陀で選べばいいということにはならない。専門家として、薬剤師の責任において、十分に資料を吟味し、最も信頼出来る薬を選別することが必要である。それができないのであれば、独立した職能としての薬剤師がおかしくなる。

薬の副作用とは、その薬が本来持っている薬理作用が、期待されない方向に出たということに過ぎない。薬を服むということは、効果と同時に期待していない作用をも受け入れるということなのである。副作用を抑えることができるものは、抑える方策をとることになるが、最終的には服用を中止しなければ抑えることのできない副作用もある。

医師にしろ薬剤師にしろ、重篤な副作用の前駆症状等は、患者に十分に説明しておかなければならない。そのことによって如何に速く異変に気付くかということが重要なのである。その意味では、処方せんを受け取った薬剤師は、その時点で患者との会話を交わすことが重要なのである。現在の門前調剤薬局のやり方は、処方せんの受け取りは、補助員などがやっている。しかも、患者として薬を貰ってみると、薬局で渡される薬の説明は、説明書のみで、その説明書も、第1回目から延々と全く同じ説明内容である。このような現状を見ると、後発医薬品の副作用を心配する前に、現在調剤している薬の副作用について心配すべきではないかと考えてしまう。

こと薬に関しては、薬剤師が全ての責任を持つというのであれば、何時も何かの陰に隠れているというのは不味いだろう。仕事に責任を持つということは、のほほんと仕事をすることとは違う。あらゆる場面で前に出て、鉄砲玉に当たる覚悟を持つということであり、討ち死にしないだけの準備を常にしておかなければならない。

  (2010.9.16.)