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『御寺なのか神社なのか』

火曜日, 8月 3rd, 2010

鬼城竜生

橋の名前『聖橋』は、東京府東京市(現:東京都)が公募し、両岸に位置する二つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名されたといわれている。橋は船から見上げた時に最も美しく見えるようにデザインされているといわれるが、殆ど舟での通行がされない現在、何の意味もない様に見えるが、御茶ノ水駅のホームから見る橋の風景は、ややそれに近い視点で見ることができるとする紹介が見られる。

徳川五代将軍綱吉が、儒学の振興を図るため、元禄三年(1690)湯島に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾を移設した。これが現在の湯島聖堂の始まりだとされる。その後、およそ100年を経た寛政九年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」が開設された。

明治維新を迎えると、聖堂・学問所は新政府の所管となり、当初、学問所は大学校・大学と改称されて存置されたが、明治四年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってから75年の儒学の講筵(こうえん)は、ここにその歴史を閉じたという解説がみられる。

序で明治四年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌五年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、七 年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治十九年(1886)、二十三年(1890)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展した。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担ったとされる。

大正十一年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されたが、翌十二年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失した。この復興は斯文会が中心となり、昭和十年(1935)寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建された。この建物が現在の湯島聖堂であると紹介されている。

今現在見ても大きな堂宇に感心するが、関東大震災以前は、更に大きな建物が建っていたのではないか思われる。しかし、つくづく眺めてみてこれは御寺なのか、神社なのかそれが分からなかったので、売店に坐っていた若い女性に『ここは御寺なんですか、それとも神社、どっちなんですか』、『御寺でも神社でもありません。孔子様をお祀りする廟です』という返事を頂戴したが、今一つピンとこなかった。

廟の辞書的説明では『王者・偉人などの霊を祭った所。みたまや。』。例として孔子廟・レーニン廟が挙げられているが、孔子廟については、“孔子廟(こうしびょう)は、中国、春秋時代の思想家、儒教の創始者である孔子を祀っている霊廟(霊を祀る建物)。”なる説明が見られる。確かに御寺でもなく、神社でもなくといわれれば、そんな気もするが、日本にも一代限りの神社がある、これとの比較では余計解り難い。

聖堂の売店で購入した絵葉書に、ここで行われた博覧会の絵柄があるが、金の鯱が展示されており、壮大な展覧会が行われたことが想像出来るが、博物館があったと言うことで、絵葉書の内容にも納得。

直ぐ近くに江戸総鎮守神田明神があるというので、御参りするとともに御朱印が戴ければと言うことで、神田明神に廻ることにした。神田明神の正式名称は神田神社で、東京の中心-神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場等、108町会の総氏神様とされている。御祭神は一之宮:大己貴命(おおなむちのみこと:大黒様)、二之宮:少彦名命(すくなひこなのみこと、恵比寿様)、三之宮:平将門命(たいらのまさかどのみこと)。祭神の大黒・恵比寿は理解出来るが、平将門は祭神にはなり難いのではないかと思われるが、どうなんだろう。

神社で頂戴した小冊子によると、『まさかど様』、除災厄除の神様。延慶二年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。明治七年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和五十九年に再びご本殿に奉祀されたとする説明がされている。

小冊子に記載された“神田神社”の社伝を見ると、天平二年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村-現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶二年(1309)当社に奉祀いたしました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。慶長五年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると、九月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。

江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和二年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。

明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。明治七年(1874)には、初めて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました等の記載がされている。しかし、古い神社にしては全体的に狭い感じを受けたが、社殿の前で結婚式後の写真を撮る人、行き交う緋袴の巫女さんの姿等、行き交う参詣人の数から見ても、活気のある神社だった。

帰りに聖橋を下り“ニコライ堂”の写真を撮って行くことにした。“ニコライ堂”は別名で、正式名称は「東京復活大聖堂」ということだそうである。日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライにちなむという。“ニコライ堂”の佇まいは写真だけでは見たことがあるが、眼にするのは初めてのことで、何人かのカメラマンが同じ方向から建物にカメラのレンズを向けていた。

2009年11月21日(土曜日)総歩行数13,645歩。

(2010.2.27.)