紅葉巡礼(3)

鬼城竜生

紅葉の写真を撮りに高幡不動に出かけた(2007年12月4日火曜日)。川崎駅から南部線で分倍河原に出て、京王線に乗り換えて高幡不動で下りると、直ぐ不動尊の参道入り口の看板が眼に入った。しかし、東京に住んで既に30年を超えるが、高幡不動、ある高幡不動-001 いは京王線の各駅に出るのは、新宿駅経由しかないと思いこんでいたので、高尾山等を含めて、南部線経由で足を伸ばせるということには、驚きを禁じ得なかった。従前は新宿方面に住んでいたので、高尾山も百草園も新宿からしか行っていないが、その当時でも高幡不動には特段の興味を持つことはなかった。今回、高幡不動に出かける気になったのは、前の日にTVで、紅葉が見頃だという放映がされていたので、紅葉の写真でも撮るかということで出かけた。

参道を真っ直ぐ行くと突き当たりに仁王門が見えたが、総門はやや左側にあり、総門の正面は山門を経由して大日堂に至る道になっており、仁王門は後ろに不動堂、奥殿が並んでいた。更に総門の左手に五重塔が見えたが、全く五重塔があるなどと思っていなかったので、素直に驚かさせていただいた。

大体、高幡不動とはそも何者なのかといえば、真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺が正式な名称のようである。山号寺号でいえば『高幡山金剛寺』ということのようである。古くから関東三不動の一つに挙げられており、高幡不動尊として親しまれているという案内がされている。

その草創は古文書によれば大宝年間(701年)以前とも、奈良時代行基菩薩の開基とも伝え高幡不動-002られるが、1,1004年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって東関鎮護の霊 場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王を安置したのに始まるとしている。建武二年(1335年)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したため時の住僧儀海上人が康永元年(1342年)に麓に移築したのが現在の不動堂で、関東近県内では稀に見る古文化財である。それに続いて建てられた仁王門ともども重文に指定されてい高幡不動-003ると解説されている。
足利時代に汗かき不動と呼ばれたとされているが、丈六不動三尊は関東唯一の平安時代の巨像で、本尊は本丈六・両童子半丈六で、古来日本一の不動三尊と伝えられ、三尊に火炎光背を加えた総重量は1100キロを超すとする紹介文があるが、誰がこんなものを量ったというのだろう。確かに拝見するところ凄まじい迫力で、関東武士勃興期の気分を伝える豪快な尊像で十一世紀末頃の造立というが、その当時の金額でどの程度かかったの か。そういう詰まらない考えが直ぐに頭を過ぎるというのは、信心が足りないということなのかもしれないが、民百姓から掠めた金で、所の権力者が建てたのだろうなどという罰当たりな発想に取り付かれてしまうのである。

まあ、そんなことはさておき、土方歳三の銅像を過ぎて大師堂の前に出ると、そこに見事な紅葉が見られたが、人が多すぎて話にならないということで、取り敢えず裏山不動ヶ丘に登り、八十八カ所の大師像が奉られているという道筋を歩くことにした。上から五重塔を紅葉越しに俯瞰できる位置を探して歩いたが、一度行ったきりで草々都合の良い位置を見つけ出すことは難しいということで、まあそこそこの写真が撮れたというところである。
紅葉を見ながら歩いて、それはそれで納得はしたが、裏山不動ヶ丘の植生は紫陽花が多いのではないかと思ったが、丈六不動三尊(重文)の参拝記念の半券裏面の説明によれば、裏山不動ヶ丘には桜・紫陽花・紅葉等四高幡不動-004 季とりどりの景色が味わえるとされている。しかし、歩いている間、桜の木は眼に入らなかったが、桜があるという認識を全く持たずに歩いていたため、見過ごしたということのようである。
何れにしろ納得いく写真を撮るためには、何回か通わなければ駄目だということになるのだろうが、風景を切り取るという作業は、太陽光や空気中の湿度に大きく影響されるという面もあり、行った時がその時だとは限らないため、結局は下手な鉄砲も数打ちゃ当たるの実践ということだと思われる。

今回は万歩計も1万を超えており、さほどきつい思いもせず、歩けたのは、自然の大地を踏んで歩いたということなのかもしれない。帰りに遅昼を食ったが、参道に面して店を開けていた飯屋で天丼を食ったが、店内の雰囲気としては、狭いなりに彼方此方に贔屓がいる店のようであった。

(2008.1.23.)