鴆(チン)の毒性

対象物 鴆 毒(チンドク)
成分 不明あるいは蛇毒
一般的性状

『鴆』という鳥は過去に実在していたのか、あるいは王侯貴族の世界で用いられていた毒殺用の毒を婉曲に『鴆』という呼称で曖昧に表現していたのか。その辺は何ともいえないが、石の下に隠れた蛇を捕るのに、糞をかけると石が砕けた等という話しをきくと、白髪三千丈の世界かと思えてくる。しかし、文字として、次の言葉が存在する。
『火扁に鳥』は『鴆』の俗字。一種の毒鳥。その雄を『運日』という。その雌を『陰諧』いう。故に鳥をかく。その羽を酒に浸して飲めば死すという。転じてそ
の酒又は酒にて毒殺する義とす。
鴆肉:毒鳥の肉。
鴆毒:鴆という鳥の毒。
鴆殺:鴆毒を飲ませて、殺すこと。鴆酒:鴆毒を混じたる毒酒。
鴆媒:讒言(ざんげん)をいう。
更に『鴆』について、次の報告がされている。
鴆鳥画像毒薬の歴史は古い。中国では紀元前から知られており、羽毛に猛毒のある鳥が用いられ、名を鴆(チン)といい、かつて揚子江以南に生息していたという。しかし唐代になると政府も存在を認めず、659年の『新修本草』からは「有名無用」の項に入れられてしまう。それで伝説化され、『山海経』の珍奇な動物同様、空想上の毒鳥とも考えられていた。
鴆鳥の毒性は紀元前の『国語』『韓非子』『史記』などに記述があり、漢代字書の『説文』や『爾雅』にも掲載されている。また鴆酒・鴆醴・鴆毒・酖という、羽毛を漬けた酒による毒殺記録は『漢書』『後漢書』『晋書』に数多い。さらに『漢書』の注が引く後漢の応劭は「黒身赤目」といい、陸機・郭璞らの三世紀一流の文人も鴆烏の毒に言及する。『晋書』には、東晋の穆帝が358年3月に生鳥を献上され、激怒して焼き殺した記録もある。
医薬書の初出は、二世紀頃の『神農本草経』で、犀角条に鴆羽の毒性を記す。五世紀末以前成立の『名医別録』から本草の正条品となり、「鳩鳥毛。大毒あり。五蔵に入れば爛して人を殺す。その口は蝮蛇の毒を殺(け)す」と記載されている。後500年頃の陶弘景『本草集注』はこれに形状・生息地・別名・毒性等の注を加えたが、多くは伝聞に基づいているらしい。610年の『諸病源候論』も毒薬として鴆羽等を挙げるが、記載は『本草集注』の範囲を出ない。そして659年の『新修本草』以降、ついに本草の正条品から除外され、存否不詳の鳥となってしまった。
最近、ニューギニアに生息する鳥に、毒鳥がいることが明らかになり、この鳥も羽毛に毒性が強い点などから、鴆鳥も実在していたのではないかと考えられる。ニューギニアのジャングルに棲み、鳴き声からPitohui(モリモズ)属と命名された鳥が報告されたのは1830年のことであるが、シカゴ大のJohn Dumbacherらが偶然その羽に中毒し、毒性に気付いたのは1990年のことである。彼らは鳥類で初めて発見された毒性物質の研究を、『サイエンス』の1992年10月30日号に報告し、その表紙に毒鳥の写真が採用された。

毒性

毒性最強の鳥は、ズグロモリモズ(Pitohui dic-hrous)で、その皮膚 10mgの抽出エキスをマウスに皮下注射すると、痙攣して18-19分で死亡。羽毛25mgのエキスでも15-19分で死に致る。この毒性は骨格筋も示すが、心肝胃腸等には認められていない。毒性の強いPitohui dichrousに擬態す るカワリモリモズ(P. kihocephalus)は、皮膚20mg相当のエキスで16-18分、羽毛50mg相当のエキスでは19-27で、マウスを痙攣ののち死亡させる。しかし胸の筋肉と心肝胃は毒性を示さない。また同属のサビイロモリモズ(P. ferrugineus)も、皮膚40mg相当エキスの皮下投与で30分-40分後にマウスを死亡させるが、羽毛と胸の筋肉に毒性は認められていない。
■Pitohui dichrousは、ヒトに対して一羽で重篤な毒性を十分に示すだろうという。分析の結果、これら毒性の主成分はステロイド系alkaloidの神経毒、ホモバトラコトキシンと確定された。動物実験でマウスにホモバトラコトキシン3μg/kgで投与マウス群の半数が死亡する。これとモリモズ属各鳥の毒性試験から類推して、ホモバトラコトキシンは65gのズグロモリモズで皮膚に15-20μg、羽毛に2-3μgが含まれる。85-95gのカワリモリモズでは、皮膚に6-10μg、100gののサビイロモリモズでは皮膚に1-2μgが含有されると概算された。しかもホモバトラコトキシン(homobatrachtoxine)及び同類毒のバトラコトキシン (batrachtoxine)はコロンビア産のカエル(Phyllobatesaurotaeniaなど)にもあり、皮膚の汁は矢の毒に利用されている。
batrachtoxine:ネズミLD50(皮下)2μg/kg、現在知られている毒物の中で最も強 く、ボツリヌス毒素に匹敵する。低分子量の毒で、半数致死量は僅か0.002mgで、神経膜にあるナトリウムチャンネルが閉じるのを妨げ、神経や筋肉の機能を停止させる。脂溶性。

homobatrachtoxine:ネズミLD50(皮下)3μg/kg。
■Pitohui dichrousを捕捉したとき噛まれた傷口をなめたとこ ろ、口内が痛み、痺れが発現した。更に羽毛を舌にのせたところ、クシャミが出て、口と鼻の粘膜に麻痺と灼熱感を即座に覚えたという。

症状 『鴆』に起因する具体的な症状は報告されていない。
処置 『鴆』に起因する症状に対する具体的な治療法は報告されていない。
事例

翌日、幻之介は禁裏附きの越水重三郎に聞いて室町の医師杉岡尚庵を訪ねた。尚庵は町医者であったが、若い頃から各種の毒の研究を行っており、毒物に詳しいと聞いたからである。
尚庵は陽の光がさんさんと降り注ぐ庭に面した座敷で幻之介を迎えた。歳の頃は還暦を超えたと思われる老人で眉も顎の鬚もすっかり白いものに変わっている。
「毒ということですが、どんなお訊ねなんでしょうか?」
尚庵は茶を勧めると、やわらかい言葉で訊ねてきた。
「鴆毒のことです。猛毒と聞きました。どんな毒なのかお聞きしたいと思いまして」
尚庵の面に微かな笑みの混ざった悪戯っぽい表情が浮かんだ。「祝さまと申されるか。本気で鴆毒のことを信じておるんですか?」
「と申されると?」
「そんなものはこの世にありません。あれは迷信でしてな。宮廷で陰謀に使われる毒というと、昔から鴆毒を上げますが、でも、実際その鴆毒を見た者はおまへん」
………………
「自分の調べたところによりますと、鴆毒というのは鴆という鳥の羽根をもぎ、何日も水にひたしておいて、その底に沈んだものから取るとあります。でも、そのもととなる肝心の鴆という鳥がよう分からんのですわ」
………………
「そうですな。烏頭に翁草やらなんやらを加えて七日ほどぐつぐつ煮て毒を作る方法がありましてな。これは猛毒でおます。例えば指先についたごくわずかなものを舐めても、えらいことになります。むろん、下血に黒い血が混ざることもありますな。で、どなたはんが?」[庄司圭太:闇の鴆毒-花奉行幻之介始末;集英社文庫,2001]。

備考 『鴆』 についてはあくまで仮想毒であり、具体的な症状等は、想定困難である。参照としてPitohui dichrousの事例を紹介したが、毒物の性状が全く同一であるとする保証はない。
文献

1) 上田万年・他編纂:大字典;講談社,1965
2)真柳 誠:目で見る漢方史料館(59)-伝説の鴆鳥と世界初発見の毒鳥;漢方の臨床,40(2):(1993)
3)http://www.joy.hi-ho.ne.jp/tukihara/poison/0020.htm,2004.8.9.
4)http://www.hum.ibaraki.ac.jp/chu-bun/mayanagi.html,2004.8.9.
5)志田正二・代表編:化学辞典;森北出版株式会社,19996)大木幸介:毒物雑学事典;講談社ブルーバックス,1999
7)内藤裕史:中毒百科 改訂第2版;南江堂,2001

調査者 古泉秀夫 記入日 2004.8.12.